2039 未来へのことば「焼き場に立つ少年」のこと
一枚の写真が目に焼き付いている。広島に続いて原爆が投下された長崎で米国人カメラマンが撮影した「焼き場に立つ少年」と題した写真だ。カトリックのローマ法王庁が「核なき世界」を訴えるフランシスコ法王の指示で、教会関係者に対しこの写真入りカードの配布を指示したのは2017年12月のことだった。私はこの写真について、これまで数回このブログで書いている。そのうちの一部をまとめて再掲する。
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▼『未来へのことば』
埼玉在住の詩人たちの同人詩誌『薇』の創刊号に印象深い詩が掲載されている。この詩誌は2009年12月に創刊、年2回発行されている。創刊号で私が強い印象を受けたのは北岡淳子さんの詩『未来へのことば』である。これは「焼き場に立つ少年」をテーマにした詩だった。詩人の感性は、私の胸に突き刺さる。
両足を揃え指先までぴっと伸ばした不動の
姿勢で少年は現れた その日を封印した元兵
士の内に直立不動の背を押し当てて 背には
仰け反る弟が冷たく目を閉じている まだ腰
丈に満たない少年の張りつめた貌と 仰け反
る弟の丸い頭と張り出したお尻 兵士は身を
かがめて ただひとり世界にたつ少年を写し
撮った 絶たれた関わりになおも結ばれて唇
をかみしめ がらんどうの世界を引きずる少
年を 白いマスクの男たちは黙って 少年の
おぶい紐をほどき 弟を火の中に置く 幼い
肉体が水に溶けるジュッという音 それから
あどけない顔のまわりにも真っ赤な炎が立ち
上がり 弟は燃えた 頬を炙られながら 炎
の鎮まるまでを見つめ続けて少年は無言の
まま立ち去った とかつての兵士は記した※
探したのです しかし彼の消息は手がかり
さえも得られなかった 消された街の人々と
同じ病いに身を侵された兵士だった男はその
日に寄り添う まだどこにもたどり着けない
まま がらんどうの死臭の街を彷徨い続けて
いる少年や 数え切れない人々が ひとり一
人彷徨っている街に 写し撮れなかった臭い
と〈ネガにうつった日本人に笑顔はなかった。
幸せなんてどこにもなかった※〉グランド・ゼ
ロとなったその日以後 過ぎた日は重く な
おも託された未来がある 銃を構える兵士た
ちの前で 少女が差し出した一本の白い花の
ように 素の心があなたのなかに私を見る
足下に寝息を立てる犬の温もりを抱き取る
路傍の花と眼差しを交わす もしかしてその
ような些細なことの内に 世界は未来へのこ
とばを生むのかもしれない
注※は、軍曹として第2次世界大戦に従軍後、
公式カメラマンとして訪日したジョー・オダネル
の言葉を引用。同氏は、およそ7ヶ月間にわたり、
長崎や広島を歩き、日本と日本人の惨状を目の当
たりにした。記録写真「焼き場に立つ少年」をモ
デルにした。2007年85歳で癌により逝去。
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▼「焼き場に立つ少年」について
この写真を撮影したのは、米軍の従軍カメラマンだったジョー・オダネル(2007年85歳で没)である。1945年8月9日、長崎への米軍による原爆投下のあと(撮影時期について、NHKの特集番組は10月ごろと推定している)オダネルは浦上天主堂で焼けただれたマリア像を見てから、浦上川近くにある火葬場に行った。オダネルが火葬場に立っていると、死んだ幼い弟を背中に背負った10歳くらいの裸足の少年がやってきて、順番が来るまでの間、直立不動の姿勢で待ち続けた。この姿をオダネルは写真に収めた。しばらくして火葬場にいた2人の男が弟を背中から外し、そっと炎の中に置いた。少年は敬礼しているかのように、黙って立ち続けていた。炎が少年のほおを赤く染めていた。少年は泣かず、ただ唇をかみしめていて、唇には血がにじんでいた。その後少年は何も言わず、立ち去ったという。
オダネルは「ファインダーを通じて、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた少年の顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った」と、著書『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』(小学館)に記した。
オダネルの証言のように、少年は火葬場で順番待ちと弟が焼かれている間、背筋を伸ばし、気を付けの姿勢を取り続けた。原爆投下による悲劇に見舞われたという現実を受け入れることができず放心状態にあったのか、あるいは深い悲しみのため涙も枯れ、ただきつく唇をかみしめていたのか、そのどちらとも受け取ることは可能である。少年のこのような姿に、オダネルが衝撃を受けたことは言うまでもない。
人は極限状況に置かれた際、無意識にそれまで育ってきた環境や体験で培った行動をとるといわれる。写真の少年がこのような気を付けの姿勢をとり続けた背景には、昭和の激動期に生きたことが挙げられるだろう。戦争への協力が何よりも優先される社会の中で育った少年は、弟を火葬場に運んだとき、学校や家庭で教えられた通りの姿勢をとったのかもしれない。だが、その感情は私が想像する以上に複雑さに満ちていたのではないだろうか。
戦争によって浮浪児となった中学3年の兄と4歳の妹が餓死するまでを描いた野坂昭如の小説『火垂るの墓』(新潮文庫)には、死んだ妹を寺の隅で焼いて骨にする場面がある。そこにはおびただしい蛍の群れがいて、「節子さびしないやろ。蛍がついとるもんなあ。(中略)蛍と一緒に天国へ行き」と、短いながらも死んだ妹に対する兄の深い思いが記されている。長崎の少年も、弟に対して心の中で何かを語りかけていたのではないかと思えてならない。
少年の境遇に関しては想像するしかない。写真から類推すると、日常的にこのような姿勢をとることに慣れており、死んでしまった弟との別れというつらい場面でも、無意識にそれが出たのではないだろうか。少年が火葬の順番を待つ間、さらに弟が火葬される間、一点を見つめ、だれにも言われることなくきちんとした姿勢をとっていたことはオダネルの証言で明らかになっている。原爆に遭遇し肉親を失い、この世の地獄を体験しただろう少年は、最愛の弟との別れに際し、このような無意識の行動をとったのかもしれない。
日中戦争が泥沼化していた1941年(昭和16)4月、それまでの尋常小学校は、ナチス・ドイツを手本に教育の戦時体制を実現するのが目的である国民学校になった。皇国民の錬成と儀式・行事を通じて、徹底した天皇崇拝と軍国主義思想が注入され、教科書編纂には軍部が介入し、多くの軍国少年が育っていく土壌になる。体操・武道が体錬科として重視され、集団的な規律、訓練、軍事知識が必須課目とされ、朝礼から放課後の掃除に至るまで、すべて号令で行動し、教科書の持ち方にも教師の眼が光ったという。
当時の学校には宮内省から貸与された御真影といわれる天皇・皇后の写真と教育勅語を保管する奉安殿という建物があり、子どもたちは登下校時にここで敬礼し、気を付けの姿勢で校長が語る教育勅語を度々聞かされた。戦時下に少年時代を送った妹尾河童の自伝的小説『少年H』(講談社)には、この様子が書かれている。
《Hは、御真影に最敬礼して始まる講堂での式が苦痛だったので嫌いだった。祝日や記念日は1年のうち14日もあったが、学校が丸ごと休みになる日は少なく、紀元節(2月11日)、春季皇霊祭(3月の春分の日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日)などには、教育勅語が読まれ、その式典の間ずっと直立不動の姿勢で立っていなくてはならなかった。祝日嫌いはHだけでなく、どの生徒も式は苦手だった。校長が巻物になっている教育勅語を恭しく読む間は、全員頭を下げた姿勢で、3分間ほど絶対に動いてはいけないことになっていた》
子どもたちは遊びの中に戦争を取り入れたといわれ、兵隊のまねをして敬礼をする写真も残っている。このように感受性の強い子どもたちに国民学校での教育、戦争一色という社会情勢が大きな影響を与えたことは疑いがないだろう。こうした環境下に生活した長崎の少年は、弟の別れという悲しい場面で、自分の意志とは関係なく写真のような姿勢をとったと考えることもできる。
長崎の少年が弟の火葬の際にとった行動は、オダネルにとっては「アメリカの少年にはとてもできないこと」だっただろう。オダネルは写真集の中で、長崎の少年に関し「そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう」とも記した。オダネルが少年を思いやるように、この時の少年の喪失感の深さは、現代の私たちの想像を超えたものだ。少年はそうした過酷な現実に遭遇しても、涙を見せないことによって戦争を続けた社会や大人へ無言の抵抗を示したのかもしれない。
この写真を撮影したオダネル(妻は日本人)は、亡くなるまで原爆投下正当論が極めて強い米国で批判に耐えながら各地でこの写真を含む写真展を開き、戦争反対を訴えたという。一方、原爆の惨禍に苦しんだはずの日本。政府は核兵器の全廃と根絶を目的として起草された国際条約、核兵器禁止条約に参加していない。この条約に反対している核超大国米国の核の傘に守られているという意識が戦後76年になっても抜けていないのだ。