小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1375 「マドレーヌに紅茶」と「羊羹にお茶」 『失われた時を求めて 全一冊』

画像「プル―スト効果」という現象がある。フランスの作家、マルセル・プルースト(1871-1922)の長編小説『失われた時を求めて』で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸したとき、その香りをきっかけとして幼いころの記憶が鮮やかに蘇るという描写から名付けられた、心理学や精神医学の世界ではよく知られた言葉だという。 私といえば、濃いお茶を飲みながら羊羹を食べているときのにおいから幼い時代を思い出すことがある。これが私にとっての「プール―スト効果」なのだろう。 『失われた時を求めて』は、プルーストの自伝的要素が濃い小説だ。プルースト自身といっていい語り手による一人称小説で、1913年から27年にかけて刊行された全7編に及ぶ膨大な作品(英訳で4000ページ、約150万語)だ。その作品は日本でも翻訳されているが、全巻が出たのは集英社文庫(13巻)、ちくま文庫(10巻)だけであり、岩波文庫光文社古典新訳文庫は現在進行中で、いつまでに全巻が出るかは分からない状態だという。 ストーリーはないような、あるような作品である。作家志望という語り手が自分の生い立ちや社交界の姿、さらに恋愛、同性愛(レズや男色)などの体験を振り返り、最後によみがえった「無意志的記憶」から歩んできた過去の世界が、書こうとする主題・素材であることを自覚するところで終わっているという。(辞典からの受け売り) 偶然に立ち寄った書店の一角に『失われた時を求めて 全一冊』という分厚い本が並んでいた。手に取ってみると「角田光代芳川泰久早大文学学術院教授) 編訳」とあった。これまで「プルースト」という名前を聞いただけで、全巻は読もうとも思わなかったが、角田は非常に分かりやすい文章を書く作家である。だから難解といわれるこの作品も、角田の訳なら分かりやすいと思い購入した。 結果的にそれは間違いだった。基本的に翻訳を担当したのは角田の学生時代のフランス語の先生である芳川であり、角田はそれを手直ししたのだ。恩師への遠慮もあっただろうから、手直しといってもそうは多くないはずだ。芳川があとがきに書いているように、語り手を「私」から「僕」に直したのが一番の変更らしい。文庫本では全部で10巻以上のものを『全一冊』にまとめたというから、まさに縮刷版である。読み終えての感想は、プール―ストという人物の精神性の多様さだ。恋人のアルベルチーヌへの執拗な愛と、嫌いになってからの理不尽な思い込みはその典型だ。 この小説の位置付けは20世紀を代表する作品ということらしい。しかし、この『全一冊』を読んだ限りでは、フランス文学になじんだ人には悪いが「なぜ?」という疑問符が付く。成功した翻訳・編集とはとても思えないからだ。では全巻を読むかと言えば、それだけの勇気はない。 冒頭、私にとってのプルースト効果は「羊羹にお茶」と書いたが、こんな情景を覚えている。幼いころの私は祖母のひざの上に乗って、母がつくってくれた羊羹を食べるのが大好きだった。近所の人や客がきてもそれが習慣のようになっていた。近所にいた遊び友達は幼くして病気で亡くなっていて、幼いころの私は孤独だった。その寂しさを埋めてくれたのは祖母であり、母だった。 そんな幼い時代を思い出させてくれただけでも『全一冊』を読んだ意味はあったといえよう。現代はともすれば結論を急ぎ、結果を求める社会になっている。『失われた時を求めて』のように気の長い思考も、時には必要なのかもしれない。