小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1956 心に響く政治家の訴え 日本の首相は劣勢

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 画家のゴッホは、弟テオと親友の画家エミール・ベルナールに多くの手紙を書いている。その内容は含蓄がある。例えば、ベルナールに出した手紙(第4信)(岩波文庫)の中で言葉について、こんなふうに書いている。「何かをうまく語ることは、何かをうまく描くことと同様に難しくもあり面白いものだ。線の芸術と色の芸術とがあるように、言葉の芸術だってそれより劣るものじゃない」。言葉はそれほど難しいものだが、語り方によって芸術の域にまで達するということを言いたかったのだろうか。   

 言葉といえば、最近の私は政治家のことを連想してしまう。国会は言論の府ともいわれ、言葉で論戦を交わす。政治家にとって言葉は国民に自分の考え方や政策を訴えるうえで極めて重要な手段でもある。最近、そのことを痛感させた2人の女性政治家の演説が話題を集めた。2人とも言葉の重要性を聞く者に教えてくれたのだ。演説はここで書くまでもないほど、さまざまなメディアで取り上げられている。米国の大統領選でトランプ氏を破ったバイデン氏から女性初の副大統領候補として指名されたカマラ・ハリス氏と、ドイツのアンゲラ・メルケル首相の演説だ。  

 ハリス氏はバイデン氏から指名をされた後の11月7日(日本時間)、「私は何世代にもわたる女性たちのことを思う。すべての人の平等、自由、正義のために多くを犠牲にして闘った女性たちだ」「女性の副大統領は私が初めてかもしれないが、最後にはならない」と、印象に残る言葉で語りかけた。一方のメルケル首相は12月10日(同)、ドイツ国会でコロナの感染拡大と死者増に対し厳しい対策を行うことを表明し、国民に協力を呼び掛けた。その中で「ごめんなさい、本当に、心の底から申し訳ないと思っています」「1日に590人もの命が奪われている状況は、私の価値観として受け入れられない。クリスマスまでに感染を抑えるために、この1週間人と会うのを制限してください。クリスマス前に多くの人と接触し、その結果、祖父母と過ごす最後のクリスマスになってしまうようなことはあってはなりません」」などの言葉と仕草から、心からコロナに立ち向かおうとする必死な思いが伝わった。  

 では、わが日本の菅首相はどうなのか。先日、毎日新聞国語学者金田一秀穂さん(祖父は金田一京助、父は春彦で共に著名な国語学者)に、首相の言葉に対しどのように受け止めているか聞いた「『菅語』を考える」という記事が載っていた。それを要約すると、金田一さんの見方はとても厳しい。

「あまり考えた発言とは思えない。その場その場をしのげればいいと思っているようだ。(学術会議について)『女性が少ない』とか『私立大所属が少ない』『既得権益』とか思いついたことをとりあえず言っている感じで中身を伴わない、何の意味もない言葉だ。『この人は何も考えていない』と思う。ポリシーがあって言っているわけではなく、つまりは姑息だ。姑息は『ひきょう』という元々なかった意味で使われることが多いが、本来の意味は『その場限り』。菅さんはその場限りの答弁を繰り返して当座をしのぎ、いずれ国民が飽きて聞く気がなくなるのを待っているのだろう」  

 11日のインターネット番組。政治評論家とフリーアナウンサーの問いに答える形で話しているのをテレビで見た。あいさつで「ガースです」(ネットで使われている菅氏のあだ名)と言ったのには驚いた。その後は「GoToトラベル停止は考えない」などと語ったが、その言葉に全く説得力がなかった。ハリス、メルケル両氏は言葉が多くの人に感動を与えることを示した。しかし日本のトップの言葉は、残念ながらそうした点では別次元にあるといえるようだ。

 それにしても、菅首相はこうしたネットの番組に出ながら、コロナ禍が危機的な様相を示す深刻な状況なのに記者会見を開かないのはどうしたことだろう。

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