小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1968「民衆をなめるな」 コロナ禍の日常の中で

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「『民衆をなめやがって……』私はテレビの画面に見入りながら、何度も胸のなかで呟きました。この国は民衆を侮辱する国だと思いました。これほど民衆から誇りを奪って平気な国はない、と」。阪神・淡路大震災から昨17日で26年が過ぎた。同じように、民衆をなめているとしか思えない実態がコロナ禍の世界で繰り返されている。

 冒頭のカッコの言葉は、作家の宮本輝が『人間の幸福』(幻冬舎)という作品のあとがきの中で記したものだ。宮本は阪神・淡路大地震の際、被災地への救援が遅れたことにいらだった思いを、このような激しい言葉で表現した。人間の不注意や怠慢が原因で起こる災害のことを人災といい、多くの災害で指摘されてきた。そして、コロナ禍。リーダーのかじ取りの違いで民衆の命の軽重が際立っている。無能なリーダーはこの感染症を拡大させ、人災にしているといっていい。

 このところ、人通りが少ない道を選んで散歩をする。途中、公園を通ると、昨年の「緊急事態宣言」の時に見かけたカラーコーンの注意標識(写真)があった。「密集・密接に注意して下さい」の下に「3」の数字と「ジョギングは少人数で 公園はすいた時間、場所を選ぶ」とある。さらにその下に「●密集・密接しないように注意しゆずりあってください●遊具で遊んだ後はていねいに手を洗ってください」と書かれている。その近くにある手洗い場には、水道の蛇口に網に入れた石けんがぶら下がっている。この時刻(午前9時前)、人影は私以外にはない。市内の公園には、同じような標識が置かれているのだろう。

 新聞の地域版を見る。17日の千葉県内の新型コロナの新たな感染者は429人、4人が死亡した、とある。私の住む千葉市だけで60人が感染したが、個々の感染者に関する具体的情報は書かれていないから、隔靴掻痒の感が深い。今年届いた年賀状を改めて読み直す。多くがコロナに触れている。ある先輩はコロナ禍の世界の現状について「戦争はしていないが、多くの人々は生きていくために第二次大戦中と同じような厳しい生活を強いられている。自然破壊が進み、異常気象は日常化している。人類の叡智で歯止めをかけなければならない」と書いている。人間の叡智はどこにいったのだろうか。不条理な日常はいつまで続くのか……。

 国会で菅首相の初めての施政方針演説があった。その言葉は心に響かない。メルケル・ドイツ首相の年末メッセージとは大きな隔たりがある。原稿を見るためほとんど下を向いている。語尾になると声が小さくなる。自信がないかのようだ。次々に施策を羅列する、力のない演説を聴いていても耳に入らない。居眠りしている議員の姿がテレビ画面に映し出されている。時々、議場から応援の「そうだ」という声とヤジが聞こえる。大相撲やプロ野球でも声を出した応援は止められている。にもかかわらず、大声の応援とヤジを飛ばす議員がいる。ひどい演説と応援の声とヤジ。テレビ画面に向かって、私は「国民をなめやがって」とつぶやいてしまった。首相ら4人の演説終了後、議員席から大声で休会を提案する伝統も続いていた。こんなこともやめるべきなのに……。

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