1828 ただ過ぎに過ぐるもの 優勢なセイタカアワダチソウ
散歩コースの遊歩道から調整池を見ると、池の周辺の野原は黄色い花で埋め尽くされている。言わずと知れた外来植物のセイタカアワダチソウである。例年、この花とススキは生存競争を繰り返しているのだが、今年は外来植物の方が圧倒的に優勢だ。この道を歩き続けてかなり長い。そして、2つの植物の生態の変化に飽きることはない。
手元の百科事典によると、セイタカアワダチソウは北米原産の帰化植物で、キク科の多年草。茎は直立し、高さ2~3メートルになり、土手や荒地に群落を作る。10~11月、多数の黄色の頭花を大きな円錐花序につける。切り花用として持ち込まれたが、繁殖力が強いのが特徴で、今では全国どこでもこの花を見ることができる。
これまでもこのブログで何回かこの花について取り上げているので、詳しい生態については省略するが、天敵ともいえるススキとの戦いで今年は、この花が勝ったようだ。本来ならススキは中秋の名月の後も天を衝く勢いで残っている。しかし、相次いで上陸した台風(15号と19号)によって細長い茎は吹き飛ばされてしまい、見る影もなくなった。それに対しセイタカアワダチソウはしぶとく耐え、弱ったススキを相手にせず、わが世の春ならぬわが世の秋を謳歌しているのである。
「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。」(ブログ筆者の現代訳・何もしなくとも一方的に過ぎて行くもの。それは帆掛け舟=帆を上げて風に乗って進む船=であり、人の年齢、そして春、夏、秋、冬という四季である)
清少納言は『枕草子』の中で、こんなことを書いている。今年も春と夏が過ぎ、いつの間にか秋になった。清少納言が思うように、月日が経つのは早い。カレンダーも残り枚数が少なくなった。私の部屋にあるカレンダーの10月は、スイス・バーゼル美術館収蔵のロベルト・ツュント(スイス・ルツェルンで1827に生まれ、1909年没)作『収穫』という絵だ。
この絵はこんな構図になっている。下3分の1を占める広大な麦畑。麦は黄色く実っている。麦畑の一本道を頭に籠を載せた女性が歩き、その向こうはるかに麦の刈り入れをしている人たちの姿が点々と見える。さらにその後方には大きな緑の森があり、高く開けた青い空にモクモクと白い雲が広がっている。籠を頭に載せた女性は麦畑で働く人たちに、食べ物を運んでいるのだろうか。この絵は雄大な自然と小さな人間を対比し、自然と人間との調和を描いたものといわれ、見ていると郷愁を覚えるのだ。
先日、大雨によって大きな被害を受けた東北地方を旅した。電車の窓からは原野を黄色く彩るこの花が目に付いた。原発事故によって立ち入りが制限されている地区でも、荒れ果てた田畑をこの花が埋め尽くしているはずだ。原発事故がなかったら、ツュントが描く平和な田園風景が福島の立入制限地区でも見られたはずである。それが今は外来植物が占める原野になってしまったことを思うと、虚しさが増すばかりなのである。
外来の黄花賑し秋野原
写真 1、ロベルト・ツュントの『収穫』(カレンダーより) 2、黄色の花で埋まった調整池周辺の野原 3、セイタカアワダチソウの向こうに赤いとんがり屋根の小学校が見える
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