小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1434 暖冬で咲いた「セイタカアワダチソウ」 自然の風景

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 暖冬のせいか、もうフキノトウが出たというニュースもあった。私の散歩コースでは活動期を終え、枯れたはずの「セイタカアワダチソウ」が勢いを取り戻し、再び花が咲き始めている。この北アメリカ原産の雑草は、本来は10月から11月に咲く秋の花だ。それが狂い咲きしている。そんな光景は初めてだ。

 手元に久保田修著『散歩で出会う花』(新潮文庫)がある。この本は、道端に咲いている580種の花を説明しているが、現在は冬の最中であり、私の散歩コースでも、この本にも出ているセイタカアワダチソウの花とは出会うことはないと思っていた。だが、今月になって、調整池の周囲にある斜面の土手にセイタカアワダチソウが咲いているのを見つけた。

 名前の通り、秋に咲く花は100-250センチと、茎が長い。これに対し現在、現在のものは茎が30センチ程度と短い。それでも黄色い特徴ある花を付けている。 私はことしの賀状で日本画家、東山魁夷の「人はもっと謙虚に自然を、風景を見つめるべきである」(東山魁夷)という言葉を紹介した。東山魁夷のこの言葉は、『私たちの風景』(毎日新聞社)という本の「一枚の葉」と題した文章の中で出ている。

《人はもっと謙虚に自然を、風景を見つめるべきである。それには旅に出て大自然に接することも必要であり、異なった風土での人々の生活を興味深く眺めるのも良いが、私たちの住んでいる近くに、たとえば、庭の一本の木、一枚の葉でも心を籠めて眺めれば、根源的な生の意義を感じ取る場合があると思われる。…一枚の葉が落ちることは決して無意味では無く、その木全体の生に深くかかわっていることがわかる。一枚の葉に誕生と衰滅があってこそ、四季を通じての生々流転が行われる。》

 東山魁夷の文章を読み返し、私も自然との出会いを大切にしながら、日々を過ごしたいと思っている。 ところで、セイタカアワダチソウは、どちらかといえば嫌われものである。原発事故の福島では、人の姿が消えた休耕田や畑にあふれるように広がっているという新聞記事が出ていたことを記憶している。

 かつて、切り花用として栽培されるために持ち込まれたこの花は、いまでは全国に広がり、秋の代名詞のようになっている。「以前は大群落としてかなり繁茂したが、最近は減少している」(『散歩で出会う花』の解説)というが、私の散歩コースの花はなかなかしぶとく、暖冬で息を吹き返し、健在ぶりを見せつけている。

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写真 1、斜面に花を開いたセイタカアワダチソウ 2、青々と育ち始めたフキ

1039 セイタカアワダチソウ異聞 被災地で嫌われる黄色い花