小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1823 生後半年で死んだ妹のこと 知人の続・疎開体験記

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 ことし7月、知人の疎開体験記をこのブログに掲載した。知人にとって、自分史の一部である。今回、知人の許しを得て疎開後に起きた妹の死の記録を掲載する。(登場人物は一部仮名にしております)

 仏教用語で「会者定離」(えしゃじょうり)という言葉がある。これは、会うものは必ず別れる運命にあり、人生は無常なものであることを指す。唐詩選にも「花發多風雨 人生足別離」(花発(ひら)けば風雨多く、人生別離足(おお)し』という詩がある。この詩を訳した作家の井伏鱒二は「人生足別離」のくだりを「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」という味わい深い言葉にした。人生はこれらの言葉の通り、様々な別れから逃れることはできない。だが、大切な人との出会いと思い出は心の奥深く残っているのである。

  前回のブログ

 1797 時間に洗われ鮮明になった疎開体験 「カボチャとゼンマイえくぼ」のこと

 「良子」

  終戦後まだ混とんとしていた昭和22年3月3日、良子は生まれた。当時、私は7歳半、妹道子は6歳半、弟隆は4歳であった。そこへ4番目が加わった。器量良しとの評は、おそらく両親が自慢して言ったものであろうが、戦後のこととて良子の写真はまったく無い。

  戦争末期に秋田に疎開していた私たち家族は、終戦の年の暮れから大宮市の氷川神社のすぐ隣に有った父の伯父・高橋の邸宅に移り2部屋を借りて暮らしていた。その一隅に良子は寝かされた。子供たちは、その布団のそばにじり寄って生まれて間もない妹を覗きこんだりした。

  父は少年時代の病歴の故に兵役を免れ、東京の学校で数学を教授、終戦の年に博士号を得た自信満々の少壮の学者といったところであったが、当時の激しいインフレの進行と、食糧難とにあえぎつつ、しかも秋田に居る両親に仕送りも続けなければならない文字通りの貧乏学者であった。

  栄養不良の母親の乳が養分不足だったのか、量が足りなかったのか、良子がもともと体質的に弱かったのか、良子は程なく病気と診断された。診断初期の病名が何であったのかは知らない。

  やがて良子の頭が大きく肥大し、脳の水を抜くためと思うが脊髄穿刺をした。普通なら大人でも知らずに済む「脊髄穿刺(せきずいせんし)」という言葉を私は小学2年生にして覚えた。

  そして良子はついに脳膜炎と診断された。

  そのころ世間では、アメリカで生産されたペニシリンという青かびから作った特効薬があることが知られ、父は地元のかかりつけ医に相談したが、その老医師は「そんな青かびから作ったものが良い筈があるものか」と、面倒な話にとり合おうとしなかった。

  父は高校時代の仲間で医者になった「伊藤君」と「藤田君」の教示を仰ぎ、ペニシリンについて勉強するとともに、医者がダメなら俺がやると、注射の練習も自分の太腿、母の腕、時には私たち子供の腕にもビタミン剤や風邪薬をブスブス注射しまくって、注射の腕前には自信をつけた。今なら大変なことになるところだ。

  そして父はペニシリンを手に入れ、高橋家の台所の冷蔵庫~~氷の塊を入れて保冷するもので、電気冷蔵庫ではない~~に保管したが、良子への注射はさすがに自分ではやらなかったようである。たぶん「藤田君」に頼んだのであろう。

  ペニシリンが当時どのくらい高価だったのか、後に母が述懐したところでは、父の月給がまるまるペニシリン代になってしまい、仕方なく父はある人からヤミで儲けた金を借りたものの、後で性急な返済督促への対応に苦しみ、母はその人物への恨みを終生忘れなかったほどだから、今日の癌の特効薬のような存在だったのであろうと想像する。

  そうした悪戦苦闘にも拘わらず、良子の容態は日毎に悪くなった。

  ある日、私も良子のそばに居たが、高橋の大伯父が巻き尺を片手にふらっと部屋に入ってきて「どれどれ、どんなかな? ふむふむ」と良子をたてよこから覗き込んで出て行った。

 何日か経って、邸宅のはずれの辺りからトントンと金槌を使ったり、鋸を挽いたりする音が少し聞こえた。

  さらに何日か経った9月24日の夕方、良子は死んだ。生後僅か6ケ月余りであった。

「お別れしなさい」と言う母の言葉に従い、生まれたときと同じ布団に横たわる良子の顔をじっと見た。道子も隆も同じようにじっと見た。

  私たち子供が良子を見たのは、その時が最後だった。

  やがて良子は高橋邸の応接間に運ばれた。

  これも後から判ったが、大伯父は数日前に良子を覗き見ておよその見当をつけたうえ、有り合わせの板で棺を作っておいたのだ。良子はその棺に納められたのだが、その場面を子供らは知らない。母や、父はそのときどうしたのだろうか、全く知らない。

  そして、翌日だっただろうが、大伯父が自転車の荷台にその棺を括り付け、「では、行ってきます」とチリンとベルを鳴らすなり、「やきば」へと走り去った。子供らは家に残った。タクシーなど大宮では見かけなかった時代であったが、自転車にも乗れない両親はどうしたのだろうか。歩いて行けるところに「やきば」はあったのだろうか。

  良子の遺骨を納める骨壺は、大伯父が自分の妹、つまり私の大伯母・杉山のおばさんに持ってこさせた小さな砂糖壺であった。杉山のおばさんが「赤ちゃんだもの、これで充分でしょう」と父母に手渡したのを覚えている。大伯父がそれを預かって「やきば」に持って行ったのであろう。

  その後、私たちの住居は三転したが、良子の遺骨は砂糖壺変じた小さな骨壺に納まったまま、ずっと母の箪笥の一番上段の奥にしまってあった。

  我が家は昭和30年2月に祖父の遺骨を納める必要に迫られ都の霊園に墓所を得た。良子の遺骨は、そのあと昭和30年10月2日に納骨したのだが、どうして一番先に骨となった良子が祖父と同時ではなく、祖父の後番になったのか、その事情は判らない。   

            (令和元年8月15日)