小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1797 時間に洗われ鮮明になった疎開体験 「カボチャとゼンマイえくぼ」のこと

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 改元で平成から令和になり、昭和は遠くなりつつある。多くの国民が未曽有の犠牲を強いられた戦争が終わって74年になる。時代の変化、世代の交代によって戦争体験も確実に風化している。しかし、当事者にとって歳月が過ぎても決して忘れることができないものがある。最近、知人が書いた少年時代の疎開体験記を読んだ。そこには、戦争がもたらした悲しみの日常が記されていた。戦時中の疎開体験は、知人のこれまで歩んできた人生で大きな位置を占めているのだろう。
 
「この時代(疎開)から現在までに20年が過ぎている。しかし、それだけの時が過ぎて、私には東北の半歳が私に刻みつかたものが何であるのか、正確には判らない。ただ判るのは、体験が時間に洗われて、より鮮明に私の心に重く腰を据えているだけである」。
 
 秋田への疎開体験を持つ作家の高井有一(元共同通信文化部記者)が、疎開先で自殺した母と一人取り残された少年を描き、芥川賞を受賞した『北の河』の中で、こんなことを書いている。「体験が時間に洗われて、より鮮明に心に重く腰を据える」という言葉は、知人にも共通するのではないかと思われる。
 
 鎮魂の季節である8月が近づいてきた。以下、知人の体験の概略を紹介し、少しだけ私の個人的感想を付け加える。
 
 ▽列車からの飛び降り
 
 1945(昭和20)年3月下旬、5歳だった知人は母と妹、弟の4人で秋田県のある山間の村の国鉄駅近くに東京から疎開し、遠縁になる農家で間借り生活を送ることになった。教職に就いていた父親は病歴のために兵役を免れ、仕事のため東京に残るのだが、超満員の列車に乗って疎開先まで家族を送ってきた。駅に到着する直前、父親の「徹(知人のこと)降りるんだ」という声で、知人は走行中の列車から飛び降りた。凄まじい混雑の中で妹や弟もおり、荷物を背負ってドアのところへ行くだけでも大変なことだったから、父親にしてみれば、しっかりしているはずの長男は、その一言で駅に近づいたから、降りる用意をしろということを理解したと思ったのだろう。だが、早合点した知人はホーム到着前に列車のデッキから外へ飛び降りたのだ。
 
 駅に降りた両親は知人がいないことに気づき「徹がいない」と叫び、多くの人が深い雪をかき分けて、探してくれた。知人はこの時、大勢の人が急いで自分に向かってくるのをかすかに覚えている。当時、知人は防空頭巾に厚着姿で、丈余の雪の中に放り出されたためか、額に小さなコブを作っただけで助かった。
 
 
 この時の父親のお礼の挨拶が地元の人には不満に映ったようだ。さらに父親は監督不行届きを責めた駅長と衝突、翌日早々、東京に帰ってしまい、地元の人々の目は印象の悪い家族として残った母と3人の幼児に向けられた。こんなことがあった。知人と妹が駅の向こうに新聞を受け取りに行くと、2人を見かけた若い女性の駅員が線路の砂利を拾ってポイと投げつける。駅員からすればからかいなのかもしれないが、2人は怖くなって慌てて逃げ帰る。それは毎朝のように繰り返された。母親が配給の受け取りや買出しに行った時にも嫌がらせをされ、買い出しのコメが村の巡査に見つかり、没収されそうになり、気丈な母親は「私のおじには枢密顧問官(旧憲法下、枢密院を構成した顧問官)がいるから、あなたのやり方を手紙で知らせる」と言ったら、「何、この大うそつきめ!」と言われ、顔に墨を塗られたこともあった。
 
 8月15日、終戦の日がきた。母親は小さな弟を背負い、妹の手を引き、別の村に買い出しに行き、知人は留守番をしていた。母親は正午の玉音放送を買い出しの途中、どこかの農家のラジオの前で聞いたという。天皇の声は聞き取りにくく、かつ難解だったため何を言っているのかよく分からない人が多かったが、それでも母親は買い出しから帰ってきて、畳にペタンと腰を落としてから、力のない声で息子に「戦争が終わったよ」とだけ話した。
 
 ▽盗まれたカボチャ
 
 夏。知人は母親からカボチャの種を1粒貰い、それを裏の山腹の人目につかない、日当たりのいいところに埋めた。そこは50センチ四方ほどの、知人にとっての「秘密の畑」で、毎日水やりに登った。かぼちゃは順調に育ち、1つだけだが立派な実をつけた。戦争が終わって数日後、知人は母親を秘密の畑に連れて行った。知人は喜ぶ母親の顔を見て得意だった。母親の「お父さんが迎えに来たら、皆で食べましょう」という言葉に嬉しくなり、その後もカボチャの成長を見守った。
 
 だが、ある日。いつものように「畑」に行くと、立派になっていたはずのカボチャは消えていた。その跡は白っぽく見え、地面が丸みを帯びて窪んでいた。知人は大事に育てたカボチャが盗まれてしまったことを母親に知らせ、2人は消えたカボチャの前で泣いた。
 
 ▽ゼンマイえくぼ
 
 こんな体験のほかに、知人の顔には疎開したという痕跡がある。疎開先の農家の縁側には、蓆を敷いてゼンマイが干してあった。知人がそのそばを走りぬけようとした際に転んでしまい、カラカラに乾燥したゼンマイが左の頬に突き刺さったのだ。母親がマーキュロ(アカチン)を塗って絆創膏を張ってくれたが、その傷跡は大人になっても消えなかった。
 
 かつて「徹ちゃんのえくぼは少し変わったところにあるね」と言われたりした。高齢になった最近でこそ、シミとしわが増え、えくぼか傷か区別がつかなくなり、「ゼンマイえくぼ」は風化したのだが、しかし盗まれたカボチャの跡の「白っぽい窪み」は知人の心に鮮烈に焼きついている。知人一家はこの年の12月、秋田から埼玉・大宮の親類の家に移り、東京のわが家に戻ることができたのは1949(昭和24)年2月のことだった。
 
 ▽時が流れて
 
 1984(昭和59)年ごろから知人は仕事で秋田県に出張する機会が数回あった。最初の出張の際、秋田から山形へ向かう特急列車で、巡回してきた車掌に「〇〇駅は何時に通りますか」と聞くと、車掌は驚いた様子で「この列車は〇〇駅には停まりませんよ」と答えた。「終戦の年、ほんの子供のころ〇〇に疎開していたものだから、どんなふうか見ておこうと思いましてね」という知人に、「あのあたりはあまり変わってはいませんがね」と言って車掌は通過時間を教えてくれた。
 
 この後しばらくしてのこと。「この列車はただいまより〇〇駅を通過いたします」と車内放送があった。そして、何と特急列車がスピードを落とし、ゆっくりと小さな駅を通過したのである。秋田新幹線山形新幹線もない国鉄時代の、何とも人情味ある心遣いだった。この思いがけないサービスと車窓から見た風景に知人は驚いた。何と〇〇駅と知人が住んでいた家はすぐ近くにあり、駅員に石を投げられ泣いて帰ったのを、家からも駅からもはっきり見ることが可能な距離だった。「あんな狭いエリアのなかで毎日いじめられ、母は母でさんざん苦労をしたのか」と思った知人は、同行者の前で涙を流した。
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 ▽近現代史を扱った作品を読む意味
 
 疎開をテーマにした文芸作品は、前述の高井作品のほか柏原兵三の『長い道』がある。この作品を基に漫画家の藤子不二雄Ⓐは『少年時代』(のちに篠田正浩が映画化)という漫画を描いた。東京から富山に疎開した少年の苦難の物語である。篠田は藤子の本に寄せたメッセージで「空襲の危機にさらされた都市に住む何百万という子供たちが田園に避難したことは、戦争の歴史の中でも世界共通の出来事である。戦争は戦場だけでなく、名もない地方の片隅にまで及んでいたのだ。その時どれほどの子供たちが涙を流し、飢えに苦しんできたことか。その見聞や体験は、現代の日本を動かす中枢の人々の思想や感性を形成するのに大きな役割を果たしたにちがいない」と書いている。その通りであり、知人もその一人だった。
 
 今年になって日本の近現代を扱った本を何冊か読み直した。水上勉飢餓海峡』、北杜夫『楡家の人々』、加賀乙彦『岐路』『小暗い森』『錨のない船』、高見順『激流』、高橋紘『人間昭和天皇』、大岡昇平『野火』、江崎誠致『ルソンの谷間』、高木俊朗『インパール』、高杉一郎『私のスターリン体験』などである。
 
 このうち、自らのフィリピンでの戦争体験を基にした『ルソンの谷間』で直木賞を受賞した江崎は、あとがきで「戦争を離れて、私の人生は存在しない。小学校で満州事変、中学で日中戦争、つづく太平洋戦争には兵士として出征という経歴であり、とくに最後の戦場生活は、戦後の平和が何十年つづこうとも、決して薄れることのない刻印を私の体に刻みつけている。そして、その刻印が薄れることを望む気持ちは、今もない」と、記した。これらの作品を読んで、私は改めて歴史を記すことの大事さを再確認する一方で、時代は変わり昭和がますます遠ざかって行くことを実感した。昭和から平成、そして令和となり、戦争を知らない世代が圧倒的に多くなった。戦争は老若男女問わず、国民に容赦なく犠牲を強いることを、こうした作品や多くの体験記を読んで若い世代に知ってほしいと思う。
 
 
 
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 写真 1、穏やかな日和に恵まれた沖縄・那覇の街並み 2、ライトアップされた首里城(米軍の攻撃で焼失したが、復元された)。記事とは直接関係ありませんが、戦争について沖縄抜きに語ることはできないと思います。
 
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