小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1822 400勝達成の裏で 金田に贈る川上の言葉

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 プロ野球で大選手(大打者)にして大監督といえば、川上哲治野村克也の2人だろう。6日に86歳で亡くなった金田正一は、前人未到といわれる400勝を達成し日本では最高の投手といえる。ロッテを率い日本一も経験したが、監督の力量としては川上と野村には及ばない。金田は選手としての晩年巨人に移り、川上の指揮下に入った。その時、管理野球を実践していた川上は金田にどう接したのだろう。そのエピソードがいかにも川上らしいのだ。  

 川上は著書『遺書』(文春文庫)に「大物選手の使い方」と題して、そのいきさつを記している。金田は1965(昭和40)年、国鉄から巨人に移籍した。弱小球団国鉄でそれまでに353勝を挙げている大投手だった。当時、巨人はON(王と長嶋)を中心にしたチームで、川上は天皇と呼ばれるワンマン型の大投手、金田に自分勝手に動かれては歯車が狂い兼ねないと心配した。普通なら、ONと一緒にチームプレーに注意しながらやってくれというところだが、川上はそうは言わず逆転の発想で金田に告げたという。

「キミはこのジャイアンツで400勝するんだ。だれもなし得なかった大目標に、このジャイアンツで挑戦してもらいたい。キミのような大投手が同じジャイアンツのユニホームを着て、この大目標のためにやるとなると、これはすべての他の選手のお手本になるはずだ。なんでもキミの好きなように、いいようにやってくれ。キミがやることに悪いものがあるはずがない。しかし、ウチの連中は、キミのような大投手の物の考え方、練習方法、自己管理のどれひとつにもついていけないだろう。そこでもし、彼らとの間になにか摩擦が起き、腹が立つようなことがあったら、(中略)このわたしのところにいってきてくれ」  

 金田にとって、川上のこの言葉は意外であり、意気に感じたに違いない。金田の猛練習ぶりは、選手たちにプラスに影響し、巨人はこの年(1965)から1973(昭和48)年まで9回連続日本一(V9)という偉業を達成する。金田が400勝を達成したのは1969(昭和44)年10月10日の中日戦で、この年を最後に引退したから勝ち星もちょうど400勝だった。前述の野村は自著『怪物伝』(幻冬舎)の中で、金田について「投手としては別格、監督としては失格、食欲は怪物」と書いている。  

 私の少年時代、金田は特別な存在だった。野球をやっていた友人たちは金田の生い立ちから大投手になるまでを描いた金田物語が載った少年雑誌を貪るように読んでいた。日本のプロ野球で、金田のような投手はもう出現しないだろう。それだけに、残念なことを一つだけ記したい。

 私の本棚に戸部良也というノンフィクション作家の『プロ野球英雄伝説』(講談社文庫)という本がある。この本には戸部がインタビューしたという選手たちのエピソードが記され、川上からイチローまで52人の大選手、名選手が網羅されている。しかし金田、野村のほか米田哲也落合博満森祇晶らがこの本には出ていない。戸部によれば「じっくりとした取材をしたことがなかった」というのが理由だそうだ。ノンフィクション作家としての矜持といえる。面白い本だけに、金田らが抜けた本は物足りなさを感じた。彼らは選手時代、容易に取材を受けない壁をつくっていたのだろうか。

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