小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1814 北海道に生きた農民画家 神田日勝作品集から

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 絶筆の馬が嘶く(いななく)夏の空 農民画家といわれた神田日勝さんが32歳でこの世を去ったのは、1970年8月25日のことである。絶筆となった絵は、この句(妻の神田美砂呼=本名ミサ子さん作)にあるように馬をモチーフにした作品(未完成)だった。私がこの画家を知ったのは初めて北海道に暮らした時で、30年近く前だった。その後、この画家のことは忘れていたのだが、最近になって美術館の図書室でたまたま1冊の本に出会い、中央画壇では知られていない農民画家のことを思い出した。

 その本は『神田日勝 作品集成』(神田日勝記念美術館=鹿追町教育委員会)という題が付いた神田さんの作品集で、今年3月に発行された。神田さんが亡くなって49年が過ぎたが、その力強い作品は見る者に生きる力を与えてくれるのである。作品集に寄せた手記でミサ子さんは、夫との絵に関するやり取りを書いている。このやりとりから、神田さんにとって絵を描くことは、生きる上で欠かすことができないものであることが理解できる。

「絵を描きたいって、どんな気持ち?」 「他人のことは解らないが、僕にとっては生理現象かな」(ミサ子さんは、テレビのインタビューで排泄のようなものと話していた)  神田さんは1937年12月に東京・練馬で4人きょうだい(2人の姉と兄が1人)の次男として生まれ、太平洋戦争で東京大空襲に遭った。終戦の前日である1945年8月14日、一家は十勝平野鹿追町に移住する。中学時代から、のちに東京芸大に進んだ兄一明さん(元北海道教育大学名誉教授)の影響で油絵を描き始め、農業をしながら通信制の野幌高等酪農学校を卒業する。21歳の時に帯広の平原社展(1927年にスタートした北海道十勝地域の美術公募展)に初出品して入選、以来数々の公募展で受賞し、北海道を代表する画家として将来を嘱望される存在になる。  

 作風はベニヤ板にペインティングナイフやコテを使った具象画で、ゴッホ的ともいわれる。農業に従事していたから身近な農耕馬、牛などを題材にした作品も少なくない。地元の信用金庫と10年間のカレンダーの原画制作を契約したこともあるが、体が弱かった神田さんは1970年8月25日腎盂炎による敗血症で亡くなった。30歳を過ぎたばかりの制作意欲旺盛な時期であり、無念の死だったに違いない。  

 私が鹿追町を訪れたのは秋色が深まる2006年10月だった。この町と上士幌町にまたがる然別湖(しかりべつこ)は、オショロコマ(イワナの一種)が生息する高地の湖だ。大昔、冷害で食べものがなくなったアイヌの前に白蛇姫という神が現れ、この湖までアイヌたちを誘導し、「食べ物がなくなったときだけ、これを食べなさい」と、オショロコマを示したというアイヌ伝説が残る天空の湖である。画家となった神田さんの長女、絵里子さんは然別湖を中心に十勝の自然を写実的に描いた風景画が多いという。自然を愛したDNAは、娘へと引き継がれたのだろう。ところで、ことし4月からNHKテレビで放映されている朝の連続ドラマ「なつぞら」のヒロイン奥原なつ(広瀬すず)の幼馴染で農民画家、山田天陽(吉沢亮)のモデルは神田さんである。  

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写真1、秋の然別湖。 2~5神田日勝の作品(2は自画像、3は絶筆となった未完成の馬の絵)、いずれも『神田日勝 作品集成』より