小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1774 4月28日は何の日か 沖縄問題素通りの日米首脳会談

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 10連休2日目の4月28日は、サンフランシスコ平和条約(対日講和条約)が発効した日だ。第2次世界大戦後、米国を中心とする連合国に占領されていた日本が各国との間でサンフランシスコで平和条約を調印したのは1951年9月8日で、この条約は翌52年4月28日に発効した。67年前のことである。これにより連合国による占領が終わり、日本は主権を回復したのだが、この条約で日本から切り離された沖縄、奄美、小笠原は米国の施政下に置かれたから、沖縄では「屈辱の日」とも呼ばれている。そんな日の新聞には日米首脳会談の記事が載っている。だが、である……。

  今更言うまでもないことだが、沖縄の米軍普天間基地を名護・辺野古へと移設しようとする政府の方針は、県民投票でノーを突き付けられた。その前の知事選、つい先日の衆院選補選でも新基地建設反対の声が支持された。その民意を「真摯に受け止める」と語ったはずの安倍首相は、今回の日米首脳会談にどう臨んだのだろうか。

  外務省のホームページから要点だけ記すと、会談で話し合われたのは①朝鮮半島非核化について②北朝鮮による日本人拉致問題解決のための連携強化③日米安保同盟の強化④日米貿易交渉について⑤G20大阪サミット関係⑥新天皇即位後の初国賓としてトランプ大統領を招待――といった内容だった。結局、今回も沖縄の基地問題は素通りだった。

  相変わらず、沖縄の民意は無視されたといっていい。最近、新元号の発表でテレビへの露出度が高くなり、「次の首相候補に急浮上」という形で各メディアが持ち上げている菅官房長官もこの連休明け後に訪米し、米国政府要人と会談するという。だが、沖縄の基地問題で沖縄の民意を米側に伝え、辺野古新基地建設見直しを求める――ということは期待できそうにない。

  沖縄の地元紙、沖縄タイムス琉球新報は期せずして、きょう28日の朝刊の社説で「4・28」を取り上げている。それだけ、沖縄にとってきょうは忘れてはならない一日なのだ。少し長いが、以下に両紙社説の全文を掲載する。

  ▼沖縄タイムス

 《[きょう「4・28」]今も続く「構造的差別」》

 詩人の山之口貘は、講和会議を目前に控えた1951年夏、異郷で沖縄の行く末を案じ、一行また一行と悲痛な思いを書きつづった。

琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ」

 戦後日本の針路を決定づけたサンフランシスコ講和条約と旧安保条約は51年9月8日、サンフランシスコの別々の場所で締結され、翌52年4月28日、発効した。講和条約によって日本は主権を回復したが、沖縄は切り離され、米国に施政権が委ねられた。条約発効からきょうで67年になる。56年11月、琉球列島民政長官によって行政主席に任命された保守の重鎮、当間重剛は施政方針演説で琉球政府の性格を「米国民政府の代行機関」と表現した。米国民政府とは、沖縄統治のための米国政府の出先機関のことである。琉球政府出先機関の、そのまた代行機関というわけだ。

 旧安保条約の締結に伴い、52年4月28日、条約と同じ日に、米軍の特権などを盛り込んだ日米行政協定が発効した。協定は、極端な不平等性を備えていた。作家の山田風太郎は52年4月8日の日記にこう書き記している。

「独立の曉は――などというが、日本は独立などできはしないではないか。講和条約は発効しても、行政協定が新たに結ばれたではないか。自由未だ遼遠なり」条約が発効して間もないころ、日本本土には600余りの米軍基地があったという。   

 ■    ■

 基地問題を巡る沖縄と本土の関係が逆転し、米軍基地が沖縄に集中するようになるのは講和発効後、50年代に入ってからである。そのころ、全国各地で米軍がらみの事件・事故が多発し、反対運動が高まった。米軍統治下の沖縄でも基地建設のための土地接収が相次いだ。

 日本本土の基地問題は、憲法が適用される日本の施政下での問題であり、強権的に対応すれば反米感情を高め、安保体制そのものを脅かすおそれがあった。憲法の適用を受けない米軍統治下の沖縄では軍事上の必要性がすべてに優先された。米国民政府と米軍は「布令布告」と「銃剣とブルドーザー」によって住民の抵抗を押し切って基地建設を進めた。

 講和条約第3条が、基地の沖縄集中を可能にしたのである。日本政府は「日本の安全にかかわる問題」としてそれを追認してきた。

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「構造的差別」の源流は、ここにあると言っていい。「4・28」は、決して過ぎ去った過去の話ではない。安倍政権は講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」と定め、2013年、沖縄側の強い反対を押し切って、政府主催の記念式典を開いた。ここに安倍政権の沖縄に対する向き合い方が象徴的に示されていると言っていい。講和・安保によって形成されたのは「沖縄基地の固定化」と「本土・沖縄の分断」である。

 それが今も沖縄の人びとの上に重くのしかかっている。

  ▼琉球新報

 《4・28「屈辱の日」 沖縄の切り捨て許されぬ》

 今から67年前の1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効した。日本が独立する一方で、沖縄、奄美、小笠原は切り離された。この「屈辱の日」を決して忘れてはならない。

沖縄は去る大戦で本土防衛の時間稼ぎに利用され、日本で唯一、おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた。戦いは凄惨(せいさん)を極め、日米合わせて20万人余が犠牲になった。このうち9万4千人が一般人で、現地召集などを含めると12万2千人余の県出身者が亡くなった。民間人の死者が際だって多いことが沖縄戦の特徴である。

 激戦のさなか、日本軍はしばしば住民を避難壕から追い出したり、食糧を奪ったりした。スパイの嫌疑をかけられて殺された人もいる。戦後は米統治下に置かれ、大切な土地が強制的に接収された。米国は、講和条約の下で、軍事基地を自由に使用することができた。

 72年に日本に復帰したものの、多くの県民の願いを踏みにじる形で米軍基地は存在し続けた。沖縄戦で「捨て石」にされたうえ、日本から切り離された沖縄は、今に至るまで本土の安寧、本土の利益を守るために利用されてきたと言っていい。

 そのことを象徴するのが、名護市辺野古の海を埋め立てて進められている新基地の建設だ。2月24日の県民投票で「反対」票が有効投票の72・15%に達したが、政府は民意を黙殺した。

 反対の意思は、昨年9月の県知事選、今月の衆院3区補選を含め三たび明確に示されている。それらを平然と無視し続けるメンタリティーの根底にあるのは、「切り捨て」にほかならない。問答無用でとにかく「国の方針に従え」という姿勢だ。1879年の琉球併合(琉球処分)から140年になる。沖縄はいまだに従属の対象としか見なされていない。

 安倍政権は、普天間飛行場の危険性除去と返還のためには「辺野古移設が唯一の解決策」と判で押したように繰り返す。できない理由をあげつらう前に、どうすれば県内移設を伴わない普天間飛行場の返還が実現できるかを追求すべきである。

 国土の0・6%しかない沖縄に、全国の米軍専用施設(面積)の7割が集中している現状は誰の目から見ても異常だ。沖縄に対する構造的差別としか言いようがない。

 基地から派生する凶悪事件、米軍機の墜落といった重大事故が繰り返され、軍用機がまき散らす騒音は我慢の限度を超える。有事の際に攻撃目標になるのが基地だ。この上、新たな米軍基地を造るなど到底、受け入れ難い。そう考えるのは当然ではないか。

 これまで繰り返し指摘してきた通り、県民が切望するのは平和な沖縄だ。政府はいいかげん、「切り捨て」の発想から脱却してほしい。

 

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 かつて北海道新聞論説委員として朝刊の一面コラム「卓上四季」を6年半担当した須田禎一の『独紘のペン 交響のペン』(勁草書房)、『ペンの自由を支えるために』(評論社)の2冊の本を読み直した。須田は戦前、朝日新聞記者として上海特派員などを務め、戦後北海道新聞に入り、社説と一面コラムを担当した。反権力・反骨の姿勢を貫いた人で、道新だけでなく他の社の後輩記者たちに大きな影響を与えた。須田は『ペンの自由を支えるために』の中で、「新聞記者7つの戒め」として以下の点を挙げ、注意を促している(要約)。

  1、知ったかぶりをするな。2、先入見を持つな。3、取材先に気に入られることなど考えるな。4、部長やデスク(次長)の思惑など気にかけるな。5、あらゆる人間を差別するな。6、事件の頻度に鈍感になるな。7、権力に追従するな。

  現在の政治報道を見ていると、7つ目が気になってしまう。日米首相会談でなぜ安倍首相は沖縄の基地問題を取り上げないのか、私には解せない。沖縄が分断され、切り捨てられたままの状態はいつまで続くのだろう。