小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1773 憎しみの連鎖 スリランカ大統領と鎌倉大仏

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 スリランカ(かつてのセイロン)最大の都市、コロンボ同時多発テロがあり、22日午後7時現在日本人を含む290人が死亡し、450人以上が負傷した。スリランカといえば、日本の戦後史に残る政治家がいた。鎌倉大仏殿高徳院境内に「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない」(英語: Hatred ceases not by hatred, But by love)という顕彰碑がある、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(1906年9月17日~1996年11月1日)である。多くの犠牲者を出した同時多発テロ。憎しみの連鎖は、依然この世界を覆っている。  

 当時セイロンの蔵相だったジャヤワルダナはセイロン代表として1951年9月6日のサンフランシスコ講和会議に出席、前述の演説をして、日本に対する戦時賠償請求を放棄することを表明した。その後首相を務め、セイロンはスリランカとして国名を替え、再出発した。初代大統領は女性のシリマボ・バンダラナイケで、ジャヤワルダナが第2代大統領になった。親日家として知られ、何度も来日し、1996年に90歳で死去した際、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」という遺言通り、片方の目は群馬県の女性に移植された。  

 鎌倉大仏境内の顕彰碑の裏には、建立の由来が概略以下のように記されている。  

《この石碑は対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示されたスリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤワルデネ(原文のまま)前大統領を称えて、心からなる感謝と報恩の意を表するために建てられたものです。  

 前大統領はこの講和会議の演説に表記碑文のブッダの言葉を引用されました。パーリ語原文に即した経典の完訳は『実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である』(『タンマパダ』5)です。前大統領は、講和会議出席各国代表に向かって日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対してスリランカ国(当時セイロン)は賠償請求を放棄することを宣言されました。  

 さらに「アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して一部の国々の主張した日本分割案に真っ向から反対して、これを退けられたのであります。  

 今から40年前のことですが、当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ、勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。この石碑は、21世紀の日本を創り担う若い世代に贈る、慈悲と共生の理想を示す碑でもあります。この原点から新しい平和な世界が生まれ出ることを確信します。                     1991年(平成3年)4月28日 》

 スリランカはジャヤワルダナが大統領在任中の1983年に民族対立(シンハラ人とタミル人、シンハラ人とムーア人)によって内戦が始まった。この内戦は2009年に終結するまで長期化し、当然ながらこの国を訪れる日本人は他のアジア諸国に比べると少なかった。仕事で私がこの国を訪問したのは2007年1月のことで、市内の中心部には武装兵の姿が目に付いた。NGO関係者のマヒンダ・ラージャパクサ大統領会見に同行したのだが、執務室まで入るのに何回も警護のチェックを受けた。大統領は「2年で内戦は終結させる」と豪語し、その通りになったが、スリランカの政情は今も揺れている。  

 当時のブログを読み直すと、「平和とは程遠い」ということを書いていた。この2年後に内戦が終わり、平和が戻ったはずだった。だが、国内には憎しみを抱き続ける人々が現存することを今回の事件が示してしまった。民族の対立を乗り越えて平和を取り戻したスリランカだけに、ジャヤワルダナの言葉を虚しくさせてはならない。  

 追記 今回の犯行はニュージーランドクライストチャーチでのイスラムモスク襲撃事件に対するイスラム過激派による報復という見方が出ている。憎しみの連鎖に嘆息する思いである。

 注 死者数について、その後スリランカ政府は253人と訂正発表しました。  

 以下、関連ブログ↓  

1763 世界はどこへ行くのか NZクライストチャーチの凶行  

73 スリランカの涙(1)  

74 スリランカの涙(2)  

1025 トルコの小さな物語(8) 音楽家には鬼門のフランクフルト 税関に芸術は通じない時代なのか