小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1658 坂の街首里にて(8) タイル画の道

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 首里は石段と坂の街であり、石畳の通りもある。滞在した住宅も丘の途中にあって、坂を上り下りして日常生活を営んでいる。首里の街を下って行き、那覇のメーンストリートともいえる国際通りにたどり着く。ここまで来ると、平たんな道が続いている。ここから少し歩いたところに、タイル画の通りがあった。色とりどりのタイル画を埋め込んである焼き物の街だった。  

 壺屋やちむん通りである。やちむんというのは焼き物のことだが、ここは壺屋焼といわれる陶芸の工房が集まっている、那覇の戦後復興の礎になった地区だという。琉球王国時代の1682年から生活雑器を生産し続けてきたこの地区は、1944年10月10日の米軍による大空襲で壊滅した。そして、戦後。ニシムイの美術家同様に壺屋焼復活のために、動いた陶工たちがいた。現在の興隆はこの陶工たちの汗と涙の賜なのだという。  

 壺屋焼復活の経過については、与那原恵首里城への坂道』(中公文庫)に詳しく書いてある。那覇の住民は戦争が終わっても収容所生活を強いられた。壊滅した壺屋の陶工たちは、米軍の命令で収容所の中の小さな窯で生活雑器の生産を始める。しかし収容所での焼物の生産は細々としていて、米軍の需要にこたえることはできない。  

 そこで、陶工の城間康昌らが「壺屋に帰ればひと月で立派なものをつくることができる」と米軍を説得、1945年11月、103人の陶器製造先遣隊が壺屋に戻り、陶器生産を再開した。さらに1946年1月、陶工たちの家族も壺屋に戻り、この年の暮れには8000人の住民も帰ってきて、この街が牧志地区とともに、かつては街はずれであったにもかかわらず那覇復興の担い手になったのだ。  

 壺屋やちむん通りを歩いた。入り口には那覇市立壺屋焼物博物館があり、壺屋の歴史を知ることができる。この通りにはさまざまな模様のモダンな壺屋焼のタイルが埋め込まれているのに気付いた。魚や花が一番多く、宝船、陶器の絵もあった。2014年3月に完成したというこのタイル画は、壺屋焼の各工房が制作したものだそうだ。マンホールのふたにもシーサーや蝶、花が描かれるなど、この街の特徴がよく示されている。焼物を求めてこの街にやってくる人たちにとって、この道はもう一つの楽しみを与えてくれるだろう。  

 首里滞在中、沖縄の新聞で目を引いたのは「奄美大島、徳之島、沖縄本島北部、西表島」の世界自然遺産登録について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関・国際自然保護連合(IUCN)が「登録延期」を勧告したニュースだった。

 沖縄本島北部、世界自然遺産候補地は「やんばるの森」といわれ、多くの固有種が生息・生育する森だが、その一部には2016年12月に返還されるまで米軍北部訓練場があった。しかし、返還地は遺産候補の対象にしていなかったため「推薦エリアを見直すべきだ」だと勧告されたのだ。

 環境省は、「やんばる国立公園」(2016年9月15日に国内33番目の国立公園として指定)に編入後、世界遺産登録に加えるという目論見だったが、それが裏目に出た。基地問題世界遺産登録にも深い影を落としているのである。

 昨年、沖縄を訪れた観光客は939万6200人になった(沖縄県観光政策課発表、国内685万6200人、海外254万2200人、いずれも過去最高)という。北海道の倍近い数字であり、沖縄の人気の高さを示している。

 だが、基地問題解決の見通しはつかないという現実がある。普天間基地の名護・辺野古への移設問題では国と沖縄県の意見は真っ向から対立したままである。首里の街でも米軍の戦闘機の爆音が聞こえてくる。これが、戦後73年を経た沖縄の現実なのだ。(続く)

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