小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

608 復活した校歌の物語(1) 執念の校長の調査

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童謡の「夕焼け小焼け」は、郷愁を誘う歌だ。作詞をしたのは中村雨紅という東京の教師であり、作詞家だった。彼は日本でも有数の作詞家、野口雨情に憧れ、その一字をもらい「雨情」に染まるという意味を込めて「雨紅」というペンネームをつけたという。 その中村雨紅とコンビを組んで童謡を何曲も作曲したのが山本正夫である。(夕焼け小焼けは山本の作曲ではなく、長野県出身の草川信が作曲したものだ) 山本にまつわる話を知人の校長先生から聞いた。数回に分けて紹介したい。 この校長先生は、今月4日のブログで紹介した福島県矢祭町立東舘小学校の宍戸仙助さんだ。宍戸先生はラオスの小学校と国際交流を続けている中で、校歌のないラオスの小学校に東舘小学校の校歌を贈ることを考え、実行に移した。その動きの中で同校の校歌が2つあったことを知る。そのうち1つが復活しラオスに贈った校歌だが、この作詞・作曲者がどんな人物か気になったというのだ。 新聞記者になっていたら「特ダネ記者」になっていたかもしれないほどの行動力、調査力がある宍戸さんは、2つあった校歌のなぞを探った。執念の調査の結果、次のような事情が判明し、宍戸さんは学校紙に概略以下のように報告する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東舘小学校には様々な不思議がある。その1つが校歌と思われる曲が2つあることだ。1つは現在校歌として歌っている山本正夫作詞・作曲の「恵もひろき久慈川の」という歌詞の曲だ。ところが、ちょっと昔は「朝だ光だ、あけぼのだ」という歌詞の曲を歌っていたというのだ。 なぜ、こんなことが起きたのだろうか。先日この事情を知るという方を訪ねた。すると、この方が小学生のころは「恵もひろき久慈川の」という方を歌っていたが、太平洋戦争後、理由ははっきりしないが、十数年校歌が歌われない時期があり、その後に着任した校長が作詞し、音楽の先生が作曲して「朝だ光だ」が歌われるようになったのだという。 そのまま、昭和49年(1974年)の創立百周年で歌われ続けたが、百周年の時に昔の卒業生たちが「恵もひろき」の方を歌い、校歌として戻そうということになった。楽譜を探すと、東舘小学校に勤務したことのある先生の兄が楽譜を持っていたことが分かり、戦後30年を経て、伝統の校歌が復活したのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ラオスに渡ったのは、「恵もひろき」の方で、ラオス語に堪能な日本貿易振興機構JETRO)の職員が翻訳し、現地の子どもたちも「村歌」「校歌」として歌い出しているという。(この話続く)