小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

613 復活した校歌の物語(4)完 山本正夫の孫と感動の対面

画像 校歌のなぞを探って、作詩・作曲者の山本正夫の直系の孫である山本晴美さんが東京都板橋区で幼稚園の園長をしていることを知った、東舘小の宍戸校長と矢祭町教育委員会の片野委員長は福島県から上京し3月31日、晴美さんを訪ねた。(多くの校歌を作曲した山本正夫) 私も同行するため東武東上線ときわ台駅で電車を降りた。片野さんの調査に協力してくれた一級建築士の山本孝夫さんの案内で帝都幼稚園に向かって歩き出すと、数分して古い木造の園舎が目に飛び込んできた。庭には桜のソメイヨシノの古木2本があり、既に開花し6、7部咲きとなっている。 山本正夫には男2人、女4人の子どもがおり、4女の寿賀子さんが晴美さんの母親だ。正夫は各地で教師をした後帝都学園高等女学校を設立、教育一筋の道を歩んだ。 寿賀子さんは、現在83歳。4女だったが山本家を継ぎ、帝都幼稚園は寿賀子さんの婿養子として山本家に入った嘉親さんが女学校の近くに1949年6月に設立、嘉親さんの死後は寿賀子さんが園長を務め、それを娘の晴美さんが引き継いだ。幼稚園の建物は東京の古建築としても知られている。建物を見た人は郷愁を誘われ、心が和むはずだ。 晴美さんによると、山本正夫は師範学校の教師をしながら、音楽の講師として全国を歩いた。足跡は朝鮮、台湾、旧満州(現在の中国東北部)にまで及んだ。多くの学校の校歌や童謡も作曲したが、自分が設立した女学校の校歌は作曲しなかったというから不思議である。 晴美さんは東舘小のように「作詞」をしたケースは知らないとも語ったが、晴美さんが取り出して見せてくれた「音楽文化の曙」という山本の追悼本をめくっているうち「旭日旗の光よ永久に鮮麗なれ」という歌が掲載され、山本正夫作詞・作曲とあるのが見つかった。これを見て宍戸さんは「これで東舘小の校歌の作詞者として名前が残っていてもおかしくないことが分かりました。なぞの一つが解けたようです」と、息を弾ませた。画像 宍戸さんが、これまでの校歌にまつわる話の中でラオスの学校でも山本正夫のメロディーが歌われていることを伝えると、晴美さんは「すごいことになりましたね」と、驚いた様子だった。(伝統的建造物の帝都幼稚園) 晴美さん自身は、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝し注目集めた辻井伸行さんが在学する上野学園大学で、クラシック・バレエを学んだだけに、スラリとした体型で背筋をピンと伸ばして話すのが印象的だ。晴美さんは「こんなことになるなら、もう少し祖父のことを父たちに聞いておけばよかった」とも話した。 「こんなこと」という中には、秋田県東成瀬村の小学校がこの3月限りで統廃合されるに当たって、山本の娘の寿賀子さんを閉校式に招待するというエピソードも入っている。東成瀬村栗駒山の麓の豪雪地帯にある小さな村である。 読売新聞の報道によると、児童数が激減したため東成瀬小など4校を1校に統廃合することになり、村では昨年10月から4校の校歌をCD化する準備を始めた。CDのジャケットで作詞、作曲者を紹介しようと資料集めを急いだが、東成瀬小の校歌を作曲した山本正夫の消息だけがなかなかつかめなかったという。ことしになってようやく東京に4女の寿賀子さんがいることが分かり、招待状を手渡したというのだ。 それだけではない。現在甲子園球場で開催されている春の選抜高校野球で決勝に進んだ日大三高の校歌も山本正夫が作曲したものなのだ。私たちが訪問した31日は準々決勝で福井県敦賀北高を10-0で破り、ちょうど校歌がNHKテレビで流された。そこには作曲者として山本の名前があり、宍戸さんと片野さんは口をそろえて晴美さんに「何たる偶然!いい日にお会いできた」と語りかけたのである。画像 (晴美さんと話す宍戸校長と片野委員長) 正確な曲数は不明だが、山本が作曲した校歌は多数に上る。その意味でも山本は校歌作曲の第一人者といっていいだろう。一方、作詩者としては「荒城の月」を作詞した土井晩翠が有名だ。仙台生まれの晩翠だが、彼もまた全国の学校の校歌を作詞し、その校歌を集めた歌集「晩翠先生校歌集」もある。 晩翠に比べ山本の知名度は劣るだろう。しかし、そのメロディーは、ラオスの子どもたちによって村と学校の歌として蘇ったのだから、山本の作品の価値は晩翠の詩にひけをとらないと私は思うのだ。 東舘小学校の校歌の歴史を見るまでもなく、人は歌とのかかわりを持って人生を生きている。歌は永遠なのである。宍戸さんは新学期、蘇った校歌の物語をあらためて校内紙で報告する予定だという。