小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1677 恩讐のかなたに 明治維新と会津

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 ことしは明治維新から150年になるという。明治維新については様々なとらえ方があるが、日本社会が武家中心の封建国家から近代国家へと大きく転回したことは間違ない。その裏で薩摩、長州藩を中心にした新政府軍(官軍)と戦った旧幕府軍は賊軍といわれ、奥羽越列藩同盟各藩の人々は大きな辛酸をなめた。特に会津がそうだった。

  年貢の相次ぐ増額に苦しんだ農民たちは会津戦争が終わると一揆を起こし、新政府軍に降伏した前藩主松平容保が江戸へ送られるとき、民衆は知らぬふりをしてかつての殿様を無視したという。それから20年後、容保と民衆の再会の機会が訪れる。それは恩讐を超えたものだった。

  会津藩が新政府軍に降伏したのは、1868(明治元)年9月22日(旧暦。新暦では11月6日)のことで、容保は養子で12歳の藩主喜徳(水戸藩徳川斉昭の19男、15代将軍徳川慶喜の弟、後に容保との養子縁組を解消)とともに、市内の妙国寺で謹慎したあと10月17日(同11月20日)江戸に送られた。容保一行を新政府のお雇い外国人でイギリス人医師のウィリアム・ウィリスが目撃し、イギリス公使パークス宛に報告書として提出している。ウィリスは戊辰戦争が起きると傷ついた新政府軍兵士治療の目的で激戦地に入り、越後では敵味方関係なく治療することを進言し、実践した人物だ。

  報告書によると、容保と喜徳は大きな駕籠に乗り、家老や供の者は徒歩で帯刀なしの丸腰姿で悄然とした姿だった。警護の兵たちを除けば、容保一行を見送ったのはわずか十数人しかいなかった。一行が通る街道脇の畑では農民たちが働いていたが、畑仕事をやめることもせず、一行を見ようともしなかったという。

  曲折を経て5年後に謹慎を解かれた容保は日光東照宮宮司になる。そして歳月が過ぎ、容保が会津を去ってから20年後の1888(明治20)年7月15日、会津の象徴である磐梯山が噴火した。水蒸気爆発によって中央部分の小磐梯が山体崩壊、火砕流が発生、死者は461人(477人、444人説もある)に達し、檜原湖や秋元湖が形成された。

  この噴火で特筆されるのは、全国の延べ7万人以上から3万8000円(現在の貨幣価値では15億円)という巨額の義援金赤十字を通じて寄せられたことだ。容保は7月23日に猪苗代に入り、若松(現在の会津若松市)にも行き被災者を慰問したが、この後200円(同800万円)の大金を義援金として寄付した。当時容保は日光東照宮宮司東京府皇典講究所監督を兼務し、東京に住んでいた。8月24日付の『福島新聞』には容保も華族(旧藩主)の肩書で寄付者名簿に掲載された。

  幕末期の会津藩は、江戸湾蝦夷地の海岸部の警備、さらに容保の京都守護職就任によって出費が増大、財政悪化が顕著になる。御用金として年貢が増額され続け天候不順による凶作も重なり、農民は極貧の生活を強いられる。それに続く会津戦争で農地が荒らされてしまった。生活に窮した農民は会津藩が降伏すると世直しを求めて一揆を起こしたのだ。

  だから民衆は、かつての殿様である容保に憎しみの思いがあったはずだ。だが、慰問に現われた容保を見て民衆は怨みを忘れたかのように感謝したという。容保に続いて9月には旧斗南藩士106人が16円50銭の義援金を寄付した。磐梯山の噴火に際して容保と旧藩士がとった行動から、彼らが会津への変わらぬ思いを抱いていたことがうかがえる。

  頑固、質実剛健、学問を尊ぶ精神風土はいまも会津に生きているはずだ。会津は誇るべき街なのである。

  参考資料

・(福島県歴史資料館・福島県史料情報第22号=平成20年10月25日発行)。

・ローレンス・オリファント、ウィリアム・ウィリス、中須賀哲朗訳『英国公使館員の維新戦争見聞記』校倉書房

会津若松市史研究会編『会津若松市史7 会津の幕末維新 京都守護職から会津戦争会津若松市

・福田和久『ふくしまの百姓一揆』歴史春秋社