小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1093 木版に書かれた子どもの夢 桑名の城跡公園にて

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 前回のブログで、三重県に行ったことを書いた。このうち桑名市内にある九華公園という旧桑名城跡で、珍しいものを見た。木製の比較的新しいベンチが3つあり、その横に子どもの字で将来の夢・目標を書いた木版が張られていた。

 詳しいことは分からないが、地元の中学生が書いたものらしい。幕末期、桑名藩は、いまNHKで放映されている「八重の桜」の福島・会津藩同様、苦境に立たされたが、時を経て子どもたちは健やかに育っている。

 木版に書かれた言葉…。「大器晩成 たいきばんせい」「「出会えてよかった。ありがとう」「健康第一」「「人生苦もあり楽もある」「ずっと勉強をがんばる」「「タレントになる」「プロ野球選手になる」「海洋生物学者になる」「書道の先生になる」「獣医になりたい」「トリマーか幼稚園の先生になりたい」「漫画家になりたい」「サッカー部でスタメンをとる」「大きくなったバレーがうまくなりたい」一級建築士になる」「吹奏楽に入って金賞を取る」「「歴史学者になる」「公務員になりたい」「花屋になりたい」「絶対薬剤師になる」「神になる」

 時代は遡る。江戸時代。徳川の四天王といわれた本多忠勝が初代藩主の桑名藩は本多家の後、徳川家康にゆかりの深い松平家が藩主となる。白河藩主で寛政の改革の老中、松平定信は、老中引退後白河から領地替えとなり桑名で隠居生活を送った。

 幕末期の藩主で会津藩主として歴史的にもよく知られている松平容保(かたもり)の実の弟の松平定敬(さだあき)という人物がいた。この人物は、兄以上に波乱万丈の生涯を送ったことを歴史に詳しい人から聞いた。

 

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 容保らは美濃高須藩(現在の岐阜県海津市)藩主松平義建の子どもで、容保、定敬と尾張藩主の徳川慶勝、一橋家当主の一橋茂栄を指して「高須4兄弟」と呼ばれたそうだ。定敬は幕末期、最後の将軍になる一橋慶喜、容保と一緒に京都で尊王攘夷を叫ぶ長州藩に対抗するため「一会桑体制」をつくった人物だ。

 戊辰戦争が始まると、江戸で謹慎していた定敬は、藩主の座を先代当主の遺児に譲って、桑名の分領の柏崎(新潟県)に行き、その後兄の容保にいる会津を経て、榎本武揚の艦隊で仙台から箱館(函館)に渡り、五稜郭で戦った。

 五稜郭が陥落すると上海まで逃げるが、逃走資金(路銀)が尽きて明治維新後横浜に戻って降伏した。その後赦免され、アメリカ人宣教士ブラウンから英語を学び、明治7年には渡米する。

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 明治10年に薩摩の西郷隆盛らと明治政府の対立から西南戦争が起きると、朝敵として厳しい対応を受けた積年の恨みを晴らそうと、旧桑名藩士(400人)を率いて、遠征したというから、血気盛んな人物だったようだ。

 しかし、歴史というものは皮肉なもので、桑名と薩摩がそれ以前にもかかわりがあったことを桑名駅近くにある海蔵寺で知った。約260年前の宝歴時代、江戸幕府薩摩藩に命じてしばしば水害をもたらしている木曽・長良・揖斐三大河川の治水工事にあたらせた。

 雄藩である薩摩の疲弊を狙った策ともいわれ、薩摩藩は過酷な条件の中で工事を行い、藩士85人が自殺や病気で命を落とした。担当の家老の平田靱負(ゆきえ)は工事が終わると、犠牲者の後を追って自害したという。

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 海蔵寺には、平田ら24人の薩摩藩士の墓がある。幕府の命令に対し、薩摩藩では賛否両論があり、幕府と戦をという激しい声もあったが、平田は「戦さをすれば薩摩の民百姓が一番犠牲になる。ならばこの島津藩に連綿と続く『日本人は皆兄弟という同胞愛』と『仁義』(人を愛する最高の道徳)という精神で、水におぼれる美濃とやらの人々をお救い申そうではないか、戦さ以上に苦しいかもしれぬが、成し遂げれば、島津家もご安泰であろう」(海蔵寺HPより)といって説得したのだそうだ。

 平田のような人物はそう多くはないが、木版に夢を書いた子どもたちの中にはだれかがいるかもしれない。

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写真 1、九華公園の橋の欄干にカモメが止まっていた 2、子どもたちが書いた将来の夢 3、本多忠勝像 4、穏やかな流れの揖斐川 5、海蔵寺にある薩摩義士の説明