小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1657 坂の街首里にて(7)天空の城

画像

「天空の城」といえば、国内では兵庫県竹田城朝来市)、海外ではペルーのマチュピチュが有名だ。あまり知られていないが、沖縄の世界遺産の中で最古といわれる、うるま市の「勝連城(かつれんぐすく)跡」も、天空の城のイメージがあり、私は大好きだ。今度の沖縄滞在でも無理に家族を誘い、この城跡に登った。世界遺産とはいえ、沖縄のツアーコースに含まれることはあまりないようで、私たち以外に人影は少なかった。  

 この城の標高は約100メートルで、首里城(120~130メートル)よりも低い。だが、山を利用して造った天険の要害といわれるだけに、急こう配の道を登り、かつて城があった頂上に行き着くと、360度のパノラマが広がる。東のうるま市側には金武部湾、南の沖縄市側には中城湾があり、どこを見ても息をのむ美しさである。  

 この城が滅びたのは1458年のことだ。室町幕府8代将軍足利義政の時代(長禄2年)である。勝連城主は風雲児といわれた10代按司あじ=首長)阿麻和利(あまわり)だった。この人物の伝承は諸説あり、そのうちの一つには嘉手納町の北谷間切屋良で生まれたとある。体が弱いため山に捨てられたが、生き延び知恵と力をつけ、勝連に流れ着いた。村人に魚網をつくってやったりして慕われるようになり、さらに勝連城主の茂知附按司に取り立てられた。しかし、阿麻和利は計略を使って按司の座を奪ってしまう。  

 この後、琉球王朝の歴史に残る「護佐丸(ごさまる)・阿麻和利の乱」を起こすのだ。当時、琉球王朝第一尚氏の王、尚泰久の治世下にあり、忠臣といわれていた護佐丸は自分の娘を尚泰久の王妃として差し出し、それに応えるように尚泰久は護佐丸に勝連城に近い中城城を与える。その後、力をつけてきた阿麻和利には自分の娘(護佐丸の孫)百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせ懐柔策をとる。阿麻和利にとってまさに絶頂期である。  

 こうして護佐丸と阿麻和利は姻戚関係になった。正史によると、この後、阿麻和利は王権奪取を企み、護佐丸に謀反の意志ありと訴え、王の命令の名目で護佐丸を討伐してしまう。さらに、その勢いで首里城を攻めようとする。しかし、妻の百度踏揚とお付き役で猛将といわれた大城賢勇が勝連を抜け出し、首里に急報。王のお墨付きをもらった大城が阿麻和利を攻めて討ち取り、琉球王朝は危機を逃れる。  

 これはあくまで勝った側が伝える歴史である。これに対し、阿麻和利は「海外との交易を活発にやり、領民から信望があった琉球最後の英雄」という説もある。そして、地元うるま市では「勝連城の悲劇の英傑」として尊敬されている。うるま市には「肝高」(きむたか)という古語が伝えられている。「心豊か」「気高い」という意味で、かつて阿麻和利は領民から「肝高の阿麻和利」と呼ばれていたそうだ。  

 勝連城のふもとに、案内センターの建物がある。この入り口で貝殻細工を売っている斉藤俊博さん(66)に会った。斉藤さんは東日本大震災のあと宮城県石巻市から避難し、そのままうるま市に住み着いた元漁師である。あれから7年。当初、暑さには参ったそうだが、いまは慣れて沖縄の生活に溶け込んでいるように見えた。阿麻和利が斉藤さんを見守っているのかもしれない。(続く)

画像
 
画像
 
画像
 
画像
 

1216 南米の旅―ハチドリ紀行(5) 天空の城を蝶が飛ぶ