孔子の言葉と弟子たちとの問答を集めたといわれる「論語」には、よく知られている言葉が少なくない。「過ちを改めるに憚ることなかれ」(過失を犯したことに気づいたら、すぐに改めなければならない・学而第一 8の末尾)もその一つだ。過ちに関してはもう一つがあり、森友学園をめぐる財務省の決裁文書改ざんという衝撃的事件で政府・財務省の動きを見るうえで、考えさせる言葉といえる。
それは「里仁第四 7」にある「子曰く、人の過つや。各々其の党に於いてす。過つを観れば、斯(すなわ)ち仁を知る」である。
加地伸行・全訳注の『論語』(講談社学術文庫)によると、「老先生の教え。人間は[君子・小人を問わず誰にでも過ちがあるが]、その犯した過ちを処理するとき、それぞれの人の人格的段階(党)に応じた形となる。過ちの始末を見れば、当然にその人間性(仁)が分かる」という意味だ。
時代が変わっても「過ちの処理を見れば、その人の人間性が分かる」は不変であり、奥が深い言葉なのだ。これは、昔から言われている「出処進退」(社会における身の処し方、身の振り方)の在り方とも重なる。
かつて井上成美という海軍大将がいた。旧日本海軍で最後の大将になった人物だ。太平洋戦争の口火となる真珠湾攻撃の指揮を執った山本五十六よりは知名度は低いが、海軍の良識派として米英との戦争回避を主張し、終戦にも力を尽くした。そして戦後の井上の生き方は、まさに「里仁第四 7」を実証したともいっていい。
戦後、井上は横須賀市郊外の家にひっそりと住んで近所の子どもたちに英語やフランス語を教え続け、社会の表舞台に出ないまま貧窮の暮らしの中で1953(昭和28)年6月、この世を去る。部下たちだけでなく、多くの国民を死なせてしまったことに対する贖罪の思いからこうした生き方を選択したといわれる。
井上の対極の人物として思い浮かぶのは瀬島龍三だろう。大本営作戦参謀、関東軍作戦参謀として太平洋戦争に深く関わり、シベリア抑留を経て伊藤忠に入社、副会長まで上り詰めた。さらに中曽根元首相のブレーンを務めるなど政界にも大きな影響力を行使、戦後史に名を残した。人にはそれぞれの行動指針があり、井上も瀬島も自身の信念によって戦後を生きたのだろう。こうした2人の生き方を人はどう思うだろうか。私は、頑固に孤高を貫いた井上の生き方に惹かれる。