小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1582 戦争文学を読む 72年目の夏

画像

 最近読んだ本は、「戦争文学」といえる3冊だ。特攻隊長の体験を基にした島尾敏男の短編集『島の果て』(集英社文庫)、戦争を知らない世代が書いた高橋弘希『指の骨』(新潮文庫)、フィリピン・ミンダナオ島で生まれ、ジャングルでの避難生活を体験した衣山武秀『どこまで行っても上り坂』(自費出版)である。前掲の2冊はフィクション、3冊目は個人史である。手法は違っていてもそれぞれに戦争の実相を描いていて、深く心に迫ってくる。  

 島尾は戦争末期、海軍中尉として鹿児島県奄美群島加計呂麻(かけろま)島に渡った。特攻隊隊長として、ベニヤ板で造ったボートに250キロの爆薬を積みこみ、米戦艦に体当たりするのが任務だった。その間、島の人たちとも交流し、のちに結婚する妻とも出会う。こうした島尾自身の体験がこの作品の基になった。特攻隊に出撃命令が出るまでの複雑な心の内を記したのが「島の果て」で、他の7遍も島での終戦前後を特攻隊長の目から描いている。この夏映画化された「海辺の生と死」(満島ひかり永山絢斗主演)は、この作品と島尾の妻、島尾ミホの作品が原作だという。末期的状況の戦局化、出撃命令を待つ特攻隊の指揮官と島の少女との交流を軸に展開する物語は情景描写が丁寧で、文章も美しい。  

 高橋の作品は太平洋戦争末期の南方戦線の野戦病院が舞台で、最前線で負傷し収容された1等兵が主人公だ。現地民から食糧の調達をする一方で、病死した戦友の指の骨を形見として預かるのだが、敵軍の攻勢によって病院から退避する途中、主人公も仆れてしまう。高橋は1979(昭和54)年生まれだから、戦争とは無縁の世代である。だが、この作品に描かれる戦争の実態は真に迫るものがある。餓死した人間を食べることを想像させる記述もある。これらの事実は想像だけでは書けないだろうから、戦争に関する資料を集め、読解したのだろう。    

 城戸久枝のノンフィクション『祖国の選択』(新潮文庫)には、日中戦争に参加して元兵士の証言が紹介されている。その中に死んだ戦友のポケットの中に人の指が2、3本入っていたこと、死んだ兵士の腕を切り取る話も出てくる。ただ、指は火葬すると、その骨は爪楊枝1本があるかどうか程度で、骨かどうか分からなくなるとも書かれており、死んだ兵士の指の骨を形見に持ち帰り、遺族に渡したという話はあまり聞かない。それを試みたことは間違いないようだが、実際に指の骨を遺族に渡すことができた例は少ないのではないか。    

 衣山は1934(昭和9)年に祖父が病院の事務長をしていたミンダナオ島で生まれ、太平洋戦争敗戦の年の1945(昭和20)10月、家族とともに福島県に引き揚げる。この本の前半はフィリピン時代(戦争の始まりとジャングルへの避難、日本への引き揚げなど)が中心で、後半は引き揚げ後の日本での暮らし、教師としての歩み、フィリピン再訪などを織り込んだ。昭和のひと桁生まれの一人である衣山の半生がこの本には描かれている。戦争とは何か。衣山の以下の指摘を胸に刻みたい。 「戦争は兵士だけの戦いではありません。すべてを巻き込んで、すべてを犠牲にして極限までいくのです。ファシズム、独裁は政治家の勇ましい言葉や大きいウソから始まります。歴史がそれを物語っています」  

 このブログを書いている途中、故郷の姉から電話があった。地元の新聞に「72年目の日章旗が戻る」という見出しで、フィリピン・ルソン島で戦死した陸軍兵士が持っていた日章旗が米国で見つかり、遺族の元へ返還されたという記事が載っているという話だった。米軍の兵士が持ち帰ったものを米国のNPOを通じて返還された。陸軍兵士が戦死したのは1945(昭和20)4月で、72年の歳月を経て日章旗のみが戻った。兵士の遺骨が戻ったかどうかは分からない。

1564 「戦争との決別は権利であり、義務である」 江崎誠致著『ルソンの谷間』再読

736 『神様は海の向こうにいた』再出版! 戦艦武蔵乗組員の証言(1)

737 『神様は海の向こうにいた』 戦艦武蔵乗組員の証言(2) 

145「戦争紀行」 日中戦争の実相を描く本 

146 「戦争紀行」2 学生兵士の体験とは

147 「戦争紀行」3 時代を超えて