小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1555 無知は万死に値する 「呉下の阿蒙」を思う

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 中国・三国志に呉の呂蒙という人物が登場する。彼は無学な武人だったが、主君の孫権から学問をするよう勧められ、勉学に励んだ。後年、旧友の魯粛という将軍がその進歩に驚き、「今はもう呉にいたころの蒙さん(阿はちゃんという意味)ではない」とほめたという。旺文社・国語辞典からの受け売りだが、この故事転じて、昔のままで進歩のない人物や学問のないつまらない者を「呉下の阿蒙」(ごかのあもう) というのだそうだ。  

 東京電力福島第一原発事故のため自主避難している人たちに対し、福島に帰れないのは「本人の責任」、「本人の判断だ」という自己責任論を強調し、「裁判でもなんでもやればいい」と言い放った今村雅弘という復興相の姿を見て、この故事を思い出した。

 唖然として、開いた口がなかなか塞がらなかった。私の知り合いにも何人か自主避難をしている人がおり、聞き逃すことはできなかった。今村という復興相の経歴をみると、東大法学部を出て旧国鉄に入り、民営化後はJR九州に所属した。その後1996年政界に入り、69歳で初めて大臣の椅子を射止めた。旧国鉄、JR時代、どんな仕事をしたかは分からないが、今回の上からの目線はどうみても、世間の常識を身に着けたとは思えない。かつては学問に励んだのにそれを忘れたか、あるいは努力を怠ったかは分からない。いずれにしても、呂蒙とは対極的存在だと私は思う。  

 自己責任という言葉は、2000年代に入ってしきりにいわれるようになった。イラク戦争でフリージャーナリストが人質になって以降、ISに殺害された後藤健二さんをはじめとする戦場ジャーナリストに対する批判の代名詞として使われている。それだけなく、社会的弱者や貧困層に対しても自己責任論を押し付ける風潮が際立っているのが現状である。それは社会的弱者・貧困層に対するスティグマ(人権無視や差別)が、日本社会に蔓延していることを示している。    

 自己責任という言葉に関し、厚生省(現在の厚生労働省)元医務局長の故大谷藤郎氏の著書『ひかりの足跡 ハンセン病精神障害とわが師・わが友』(メヂカルフレンド社)の一節を読みなおした。「義務と責任を忘れると加害者になる」という章の中で、大谷氏は公務員の社会的責任の重さを強調し、国民が被害を受けた際について、官僚がどのような姿勢で仕事をすべきか、考えを述べている。この言葉を、国民の苦しみや怒りを忘れた政治家や官僚(森友問題で「木で鼻をくくる」答弁を続ける財務省の佐川宣寿理財局長もその一人)に贈りたい。

「被害が出たとき、なぜ義務を果たせていなかったのかを分析し、事実を徹底的に明らかにして、それ以上被害が拡大しないよう、国民の皆さんが納得できるよう、全力をあげて公務員としての自己責任を果たす。それによって信頼を取り戻す。仮に取り戻せないとしても、自己の責任に対する真摯さと科学的・道徳的・社会的教養を絶対に失ってはならない。(中略)口先だけでなく、一挙手一投足、行動そのものに結果責任が問われる。間違ったその罪を償うためにどう行動し、責任を果たすかである」

「自分が無知で、そのとき人権侵害の事実を直接知らなかったからと言って、自分の無策が免責されるのか。確かに現行の法律で罰せられることは少ないに違いない。しかし無意識の加害者として、客観的・道徳的にその罪は万死に値している。法律の条文に抵触するかどうかではなく、良心の問題なのである。良心はこれを許さない」