小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

854 未知数の大臣たちへの不安 5人は初耳の野田内閣

 夕刊を見て、ショックを受けた。野田内閣の新しい大臣の顔ぶれが載っている。18人の顔写真とともに、経歴が紹介されていた。そのうち朝刊に載っていた藤村修という官房長官を含めて5人が全く知らない人物だった。

  政治に無関心ではないが、こんな人がいたのかと初めて知った。「未知数」という、予測がつかないという意味の言葉を思い浮かべた。

  顔ぶれを見て、期待できる人は分からない。「どじょう内閣」というあだ名が付いたが、この人たちが東日本大震災の被災地をどう復興させ、福島原発を収束していくのか、全く想像ができない。

  被災地出身の大臣は外相の玄葉光一郎氏(福島)、財務相安住淳氏(宮城)、復興・防災相の平野達男氏(岩手)の3人がいる。いずれもこの内閣の要といっていい。しかし、彼らの力も未知数だ。知っている顔ぶれの中にも、すぐに問題を起こしそうな人も交じっている。だれとは言わないが、この内閣は前途多難といっていいだろう。

  もちろん、人間の力は偉大だ。責任ある立場に立って、力を発揮する人は少なくない。政治家を志した人たちは、国民のために自分が持っている力を最大限尽くそうと思ったはずだ。しかし、途中から自己保身に陥り「寄らば大樹の陰」とばかり、小沢氏のような旧来の強面(その背景はよくわからない。豊富な資金力なのだろうか)の政治家の傘の下に入る。そうした人たちが民主党には多数存在する。

  東日本大震災という歴史的にも大きな災害を経験し、政治に対し不信感を高めた。被災地を置き去りにして、震災後も政争に明け暮れたからだ。毎朝のように「全く、何をやっているんだ」と、ぶつぶつ言いながら犬の散歩をした。

  日本は忍従という国民性があるのだろうか。高度成長時代の1960年代から70年代にかけてデモや職場でのストライキが日常化していた。それがいまでは、日常から消えた。社会の変容は著しい。成熟化といえば言葉がいいが、日本社会全体が保守化した表れのように思えてならない。

  リビアでは42年にわたって独裁政治を敷いたカダフィ大佐が国民の反発で逃亡した。「奢れるもの久しからず」なのである。