梅雨の晴れ間が広がった先日の朝、近くの雑木林からホトトギスの鳴き声が響いてきた。私にはなぜか子どものころから、この鳴き声が「トッキョキョカキョク」(早口言葉で使われる「東京特許許可局」のうち、「東京」を除く)と言っているように聞こえる。初夏の代名詞ともいえる懐かしい「朝の歌」である。この鳥は夜でも鳴くそうだが、朝に聞くと眠気を覚ましてくれる。当て漢字、異称が多い鳥でもあり、それは日本語の奥の深さを感じさせる。
調べてみると、当て漢字、異称はこうなる。
・「沓手鳥」(くつてどり)=前世に沓をつくって売ったという由来に基づく。
・杜鵑」(とけん)、「杜宇」(とう)、「蜀魂」(しょっこん)=蜀の望帝の魂がこの鳥に化したという伝説による。
・不如帰」=中国での鳴き声の聞きなし(プルクイチュ)から。
・その他「怨鳥」、「時鳥」、「子規」、「田鵑」、「死出の田長(たおさ)」、「魂迎え鳥」など
俳句界の巨星、正岡子規の子規は号であり、本名は幼名が処之助(ところのすけ)、のちに升(のぼる)、常規(つねのり)と改名している。では、なぜ子規という号を使ったのか。
1889年(明治22)5月9日夜、子規は突然喀血した。翌日、医者に行くと肺病(肺結核)と診断され、会合に出てから、夜自宅に戻るとまた喀血したが、4、50の句をつくった。その中には以下の2句があり、号として漢字の訓読みが「ホトトギス」である「子規」を初めて使ったことは、よく知られている。22歳のときである。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
明治時代、ホトトギスは肺結核の代名詞のようにいわれた。肺結核で喀血する様子がホトトギスの鳴き方(赤い咽喉を見せて高く鳴く)に重ねたようだ。子規はそうした時代背景から、こんな句をつくったのだろう。卯の花を子規に見立てると、1作目はついに肺病にとりかれてしまったことの驚きと衝撃を示し、2作目は死ぬまで業病が体の中でうごめき続けるのだろうか、という詠嘆と受け取ることができる。子規の死後、高浜虚子主導のホトトギス派は、俳句界の主流となっていく。
ところで、ホトトギスは頭がいいのか図々しいのか、卵をウグイスなどの巣に託す託卵という習性があるという。そのために、ウグイスの鳴き声の真似もうまい。カッコウにも姿が似ている。柳田国男の『遠野物語』には、こんな言い伝えが載っている。悲しい伝承である。
郭公と時鳥は昔ありし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまわりの堅き所を自ら食い、中の軟らかなる所を妹に与えたりしを、妹は姉の食う分はいっそう旨からぶしと想いて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまち鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅い所ということなり。妹さてはよき所をのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺りにては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。(遠野物語53)
(カッコウとホトトギスはむかしは姉妹だった。ある日、姉が芋を掘って焼き、まわりの硬いところは自分が食べ、中の柔らかい部分を妹に食べさせた。だが妹は、姉が食べたところの方がおいしいかったのではないかと思い込んで姉を包丁で刺し殺してしまった。すると、姉は鳥のカッコウになり「ガンコ、ガンコ」と鳴いて飛び去った。ガンコは硬いという方言だ。そのあと妹は姉がおいしいところを自分にくれたのだと気づいた。妹は自分の過ちを知って後悔し、ホトトギスに姿を変え「包丁欠けた 包丁欠けた」と鳴いたという。こんなわけで遠野では時鳥(ホトトギス)のことを包丁欠けと呼び、盛岡周辺では「どっちに飛んで行ったか」と鳴いているというそうだ=私の意訳)
・参考資料
▼『合本 俳句歳時記』(角川学芸出版)