小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1191 子規と漱石の青春 伊集院静の「ノボさん」

画像 伊集院静の新作「ノボさん 小説正岡子規夏目漱石」は、日本の文学史上に大きな足跡を残した2人の交遊をテーマにした小説だ。小説とはいえ実在した人物を取り上げているため、ほぼ史実に沿った内容といえる。

 巻末に参考資料が出ていないので、どのような文献を利用したのかは定かではないが、子規の生涯を軸に史実を基にして作家として許される範囲で色付けを施しながらまとめた作品ではないかと思った。

 米国人で日本国籍を取得し日本に永住したドナルド・キーン(91)による正岡子規の評伝を1年前に読んだ。この評伝の内容がまだ頭の中に残っているが、あらためて伊集院の「ノボさん」を読むと、子規の人間的魅力の大きさを感じるのだ。

 この作品は21歳の子規が野球に熱中している場面から始まり、漱石との出会い、新聞記者時代の姿、俳句への傾倒、病床での創作活動、34歳で息を引き取るまでを多くのエピーソードを交えながら記している。キーンの評伝では取り上げられていない、秋山真之(のちの海軍中将・司馬遼太郎の「坂の上の雲」では子規と幼な友達として描かれている)や森鴎外との交遊についても触れている。

 司馬が「坂の上の雲」で使った「まことに」という副詞が何度か出てくるのは、司馬作品に影響を受けたためなのだろうか。 冒頭で「史実に色付けをした作品」と書いたが、それは史実を超えない範囲内で作家として感性や想像力を働かせたもので、漱石と出会う寄席での出来事、初めて喀血する鎌倉の様子、あまりにも有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句の完成までの経緯、イギリスへ留学する漱石が病床にある子規と最後に会う場面など、心に残る光景が少なくない。

 題名になった「ノボさん」は、子規の幼名である。子規の本名は正岡常規(つねのり)で、幼名が処之助(ところのすけ)といい、のちに升(のぼる)と改めた。これが「ノボさん」と呼ばれたゆえんだという。子規は雅号(文筆家・画家・学者などが、本名以外につける風雅な名前で、鴎外や漱石も雅号)であり、結核のため喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスにたとえたものだ。

 子規はこのほか幼名の「升(のぼる)」をもじって「野球(の・ぼーる)」という号も使ったという。 野球少年だった伊集院らしく、この作品は」「ノボさんどちらへ? べーすぼーる、をするぞなもし」の章から始まり「子規よ、白球を追った草原へ帰りたまえ」の章で終わる。

 伊集院は何かと話題の多い作家で、あくが強いエッセーも多く、敬遠する読者もいるだろう。ただ、この作品の最後には子規と漱石に対し伊集院の純粋な気持ちが込められており、一読の価値はあるのではないかと思われる。

《子規は俳句、短歌を文学の領域に引き上げた文学者として、現在もなおその名を広くとどめている。それでもなお周囲の人々からノボさんと親しみをこめて呼ばれ、おう、と嬉しそうに応えて、ただ自分の信じるものに真っ直ぐと歩き続けていた正岡子規が何よりまぶしい。漱石はそれを一番知っていた友であった。》

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