小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1489 孤独感と戦う森の生活 ソーローと大和君

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「わたしは、ある人が森のなかで道に迷い、とある木の根もとで飢えと疲れとために死にかかったが、肉体的の困憊のため病的になった想像力が彼の周囲にあらわした怪奇な幻像――それを彼は現実であると信じたのだ――によって孤独感をまぬがれた、という話を聞いたことがある。同様に、肉体的および精神的の健全さと力とによって、われわれはこれと似た、しかしもっと正常で自然な付き合いによって絶えずなぐさめられ、自分が決して孤独でないことを知るようになれるのである」

 北海道鹿部町の森で行方不明になっていた小学2年、田野岡大和君(7つ)が6日ぶりに自衛隊の演習施設内で発見されたニュースを見て、ヘンリー・デイヴィッド・ソーロー(1817~1862年)の『ウォールデン 森の生活』(岩波書店)を読み返した。

 ソーローはアメリカの作家で、詩人、博物学者である。28歳の1845年から2年間、ウォールデン湖畔(マサチューセッツ州にある水深31mの湖 )の森に丸太小屋を建て、自給自足の生活を試み、この本を書いた。湖水と森の四季の移り変り、動植物の生態、素朴な隣人たち、読書と思索などが描かれ、アメリカ文学の古典といわれる。 冒頭の文章はこの本の「孤独」という章に出てくる言葉である。

 ソーローの場合、自分から進んで森の生活に入っていて、家族から置き去りになり、約10キロもさまよった末、自衛隊の施設にたどり着き、食べ物もない暮らしを強いられた大和君と比較することはできないが、ソーローは「決してさびしさを感ぜず、また孤独感で少しも圧迫されることはなかった」と書いている。

 それは精神的、肉体的に健全であるという前提がある。 ソーローでも、一度だけ森に住むようになって数週間過ぎたころ、別の人間が近所にいることは健康な生活には必要であると思い、一人でいることが不愉快になったという。森の生活を実験的に選んだソーローでさえこのようなことがあったのだから、大和君の恐怖心は推して知るべしだろう。

 親に捨てられたという絶望感と誰もいないという孤独感、そして食べるものがないという肉体的飢え、さらに北海道の朝夕の冷え込みという条件が重なった。そうした厳しい環境下でも大和君は生き抜いた。彼を支えていたのは何だったのだろう。

 以前、終戦直後の旧満州をたった独りで100キロも歩き抜き、日本へ引き揚げた少年の記録『たった独りの引き揚げ隊』(石村博子著、角川文庫)を読んだことがある。少年は10歳で大和君より3歳上だが、子どもとはいえさまざまな生きる知恵を働かせ、危機や困難を乗り切り、避難行を耐え抜く。

 大和君もそうした力を持っていたから、水だけの生活で生き延びることができたのだろう。後生畏る可し(こうせいおそるべし。後進の者は努力次第で将来どんな大人物になるかわからないからおそるべきである=広辞苑より)という論語の言葉があるが、大和君の強さは「少年恐るべし」と言ってもいいかもしれない。

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