小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1211 雛祭り終え菜の花の季節 ある句会にて

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 正岡子規の研究をライフワークにしている知人の呼び掛けで、2011年夏から世代の近い人たちが集まり、酒を飲みながら子規のことを中心によもやま話をする「子規を語る会」の会合が開かれている。

 私も参加しているその会合がいつの間にか9人の「句会」へと発展し、先日、今年初めての会が開かれた。私を含めほとんどのメンバーはこれまで俳句とは縁のない生活を送っており、事前に宿題のように出される「兼題」と当日の試験ともいうべき「席題」に四苦八苦しながら取り組んだ。

 エッセイスト の岸本葉子さんは「俳句、はじめました」(角川ソフィア文庫)という本の中で「句会の楽しみ(苦しみ?)は題を示されたときから始まる」と、述懐している。同感である。フィギュアの浅田真央流にいえば、楽しみと苦しみは「ハーフ&ハーフ程度」といえようか。

 ノーベル文学賞を受賞したヘルマン・ヘッセは俳句について「日本人は17文字の詩というすばらしい発見をしました。そして彼らは、芸術作品は手軽につくることによってではなく、その逆によってすぐれたものになることを絶えず意識していました」(ヘッセの読書術・草思社文庫)と書いている。

「推敲」の必要性は私も当然認識しているのだが…。 今回の兼題は「雛」と「菜の花」の春の季語の2つであり、メンバーは2句を事前に提出した。さらに、当日は10分の時間厳守で席題「春風」の句を考えた。

 以下はその投句である。出席者(今回は9人全員が投句、句会は2人が欠席)は、1人が3句を選句し、うち最もいいと思う句も選ぶ。呼び掛け人が披講者となり、各自の選句が読み上げられ、選句の理由が明かされた。(選句〇と特選句◎は略) 私には句の巧拙は分からない。だが、日本語の奥の深さとメンバーの感性の豊かさに感心しながら、浅い春の午後のひと時を送った。

 兼題「雛」

 1、雪洞の幻妖雛の眼差しに

 2、雛の壇間合いほどよい夫婦かな

 3、招かれし淡い思い出雛祭り       

 4、明日嫁ぐ娘見つめる対の雛

 5、この街に今は一と店雛売る

 6、妻の雛戦時二級品の表示あり

 7、幾年の春を告げしや祖母の雛

 8 雛の目に映るかなたは如何ならん

 9、ひな壇を娘が孫と飾りおり       

 兼題「菜の花」

 1、鹿鳴館在りし古へ花菜風         

 2、海までの花菜畑となりにけり

 3、菜の菜で久しく語ろう友が来る

 4、菜の花のじゅうたん畑いのち燃え

 5、菜の花や土手の鉄路は岬まで

 6、菜の花やどこまで続くこがね帯     

 7 菜の花の畔を見ている老い二人     

 8、雪残る地蔵菩薩の菜花かな

 9、菜の花の香厳しき持久走        

 席題「春風」

 1、道の辺に梅の香運ぶ春の風       

 2、春の陽にほほなでるごと寄する風    

 3、頑も老ひの自立や春の風

 4、畑主の嫗は逝けり春の風

 5、一歩二歩兄のリハビリ春の風

 6、残雪も溶かしきれずに春の風

 7、春風にうなじさらして午睡する

 8、シャンゼリゼ通りのカフェに春の風

 

 俳人金子兜太氏によると、「(句会の)互選でたくさん票が集まった句がよいとは限らない。選者の選句と自分の違いを考えるのも勉強になる」という。 金子氏は「俳句は勉強から始めないで、まず作ることから始めることが大事。作った句を何度も口ずさんでいるうちにいいなと思う句とそうでない句が分かってくる」(俳句のつくり方が面白いほどわかる本=中経の文庫)とも述べている。

 花の季節に向け、句づくりに苦心しながら頭の体操を続けたいと思う。 (このブログの筆者の句は「雛」と「菜の花」がともに4、「春風」が7です)

 写真 千葉県・いすみ鉄道の線路わきに咲く菜の花

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