小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1124 望郷の思いで聞く名曲 友人のシャンソンコンサートにて

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 美しい故郷をすてて若者は都会に出ていく。そして長い年月が過ぎる。でも故郷の山はいまも美しい……。シャンソン「ふるさとの山」はこんな曲だ。6月29日夜、東京・神楽坂のライブホール・The GLEEで開かれた友人のシャンソン歌手・斉藤信之さんのコンサート。ピアノの弾き語りで斉藤さんが最初に歌ったのが「ふるさとの山」という曲だった。途中から、斉藤さんはさりげなく、ピアノの伴奏を日本の名曲「故郷」(ふるさと)に変え、誰でも知っている懐かしい歌の合唱が会場内を包んだ。  

 斉藤さんは東日本大震災原発事故のダブルパンチに見舞われた福島県出身だ。話し言葉が京都弁になるほど京都暮らしが長く、京都を拠点にシャンソンの道を歩いている。少年時代から斉藤さんが音楽に熱中し、音楽で身を立てることを夢見ていたことを知っている私は、歌を聞きながら緑濃い故郷で彼と過ごした少年の日々を思い出していた。

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ラ・ボエーム」、「海への憧れ」(ラ・メール)と郷愁を誘う名曲が続いた後、斉藤さんはいきなり帽子をかぶった。それは自動車レースの最高峰といわれるF1の帽子で、南フランスを旅行した際に買ったのだそうだ。その帽子をかぶって歌ったのが自身の作詞作曲の歌「F1」という躍動感ある曲だった。

 谷村新司堀内孝雄がアリス時代に歌った「チャンピオン」を彷彿させる力強い曲で、シャンソンとは違う面でも斉藤さんの幅広さを感じさせた。  

 最近、私は被災地の岩手県に行く機会があり、高度経済成長期の昭和30年代に国民的愛唱歌といわれ、いまも歌い継がれている「北上夜曲」(菊地規作詞、安藤睦夫作曲)の碑に立ち寄った。碑には作者直筆の歌詞と五線譜が刻まれており、ボタンを押すと名曲がスピーカーから流れてくる。

「匂い優しい白百合の 濡れているよな あの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の月の夜」。50、60歳代にはとても懐かしい曲である。  

 斉藤さんのコンサートは「F1」の歌のあと、エレキギターが流行った青春時代の思い出話に入り、当時のヒット曲が歌われた。「ヴァケーション」「ルイジアナママ」「ダイアナ」「君に会いたい」といったメドレーに続いて歌われたのが「北上夜曲」だった。この曲の詞が事前に配られており、当然のように「故郷」に続いての合唱が会場に広がった。碑を見てからまだ日が浅いだけに、この歌の合唱にはひときわ感銘を受けた。

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 休憩を挟んで、1時間半のコンサートで、斉藤さんはメドレーも入れ20曲近くを歌った。シャンソンだけでなくカントリーソング「思い出のグリーングラス」など世界的な名曲も歌われ、心地いい時間が過ぎて行く。最後の曲はカンツォーネの「ケ・サラ」だった。「ケ・サラ 僕たちの人生は」のあの歌だ。

 静かな歌い出しから次第に盛り上がっていき、斉藤さんの太くて深い声が私たちの胸に迫り、沁み込んでいく。すべてを歌い尽くした表情の斉藤さんだったが、フランク・シナトラの大ヒット曲「マイ・ウエイ」を静かに情感豊かに歌い、アンコールの声に応えた。  

 斉藤さんは長い間、日本画家の伊藤紫虹さんとシャンソンのディナーショーを催していた。以前そのショーを聞きに京都まで出かけたことがある。それから15年の歳月が流れたが、斉藤さんの力強い声は健在だった。斉藤さんはこの夜、原発事故で故郷を追われた福島の人たちを思いながら歌ったのかもしれない。私には斉藤さんの歌は「望郷の歌」に聞こえたのだ。きっとそうなのだろう。  

 私はこのブログで何回か「歌の力」や「歌の心」について書いてきた。アメリカの黒人女性歌手、ダイアナ・ロスの「IF WE HOLD ON TOGETHER」、ドイツ民謡が哀切な別れの歌として日本に広まった「故郷を離るる歌」、校歌のないラオスに校歌を贈った「遥かなりラオス」などだ。歌は人生にとって安らぎであり、かけがえのない友だちなのである。斉藤さんの歌を聞いて、それを痛感した。  

 最初に斉藤さんが歌った「ふるさとの山」の作者であるジャン・フェラは1930年12月26日にパリ近郊のユダヤ人家庭に生まれ、2010年3月13日、79歳で死去した。死去当時の報道によると、父親をナチス強制収容所で失ったフェラは1950年代にパリの酒場などで歌い始め、64年にこの曲が大ヒットする。

 少年時代にナチスから自分を救ってくれたフランス共産党のシンパとなり、60~70年代には政府を批判した政治的な歌も多く歌ったのだという。しかしフェラが亡くなると、政治的には考え方が異なる当時のサルコジ大統領はフェラを追悼する声明を発表、「まぎれもなく彼の歌はフランスのシャンソンだ」と語ったというエピソードも残っている。

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