小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1073 「正義と良心・生き方とは」を考える ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」

画像 ミュージカル映画はほとんど見ない。それでも「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)や「王様と私」(1956)など、何本かの映画は心に焼き付いている。

 この正月、退屈するだろうと思いながら、トム・フーバー監督の英国映画「レ・ミゼラブル」を見た。上映時間158分という長い映画だった。私の予想は完全に外れ、最後まで画面に引き込まれ、俳優たちの歌に聞き入った。

 原作はフランスの文豪・ビクトル・ユーゴーの不朽の名作で、(ネットで検索した限り)これまでに5回も映画化(うち1回は日本、早川雪洲主演)されていた。困窮している妹の子供たちのために一片のパンを盗んだ罪と脱獄が重なり19年にわたって投獄され、世間を憎んで出獄したジャン・バルジャンヒュー・ジャックマン)の物語だ。

 娯楽作品としての映画でも、社会正義とは、良心とは、人間の生き方とは何かなど考えるべきテーマは重い。 仮出獄後に一夜の宿を借りたジャン・バルジャンは司教館から銀の器を盗んで捕まるが、罪を見逃してくれたミリエル司教(コルム・ウィルキンソン)の慈悲を受けて改心、世の中の不幸な人のために尽くす生活を送る。

 不幸な娼婦のファンテーヌ(アン・ハサウェイ)との出会い、遺児のコゼット(アマンダ・サイフリッド)との生活、ジャン・バルジャンを追い続ける執念深いジャベール警部(ラッセル・クロウ)の追跡―。

 1790年代(フランス革命は1789年)から1830年代までの激動のフランス社会を背景に、波乱に満ちたストーリーが展開されていく。 主演のヒュー・ジャックマンはじめ、出演者は当然のごとく歌がうまい。中でも、コゼットの恋人、マリウス(エディ・レッドメイン)を慕うエボニーヌ役のサマンサ・バークスの歌(「オン・マイ・オウン」)は心にしみた。全員で歌うクライマックスの「民衆の歌」では、激動の時代のフランス国民の「社会を変えよう」という強い思いを感じ、長い映画の余韻に浸った。

 作家、塩野七生の初期の小説でルネサンス時代のイタリアの4人のローマ法王(教王)を描いた「神の代理人」という作品がある。法王はキリスト教カトリック教会を代表する高位聖職者だ。塩野が描く4人はそれぞれに「凄い個性」を持った人物で、権力の亡者になったり、贅沢三昧の生活を送ったりするなどこれが神の代理人かと首をかしげたくなるが、それだけに小説としては面白い。

 それに比べると、レ・ミゼラブルのミリエル司教は、神の代理人そのものといっていい司教であり、仮出獄後のジャン・バルジャンの生き方を変える重要な存在だ。作者のユーゴーキリスト教の洗礼は受けていないにもかかわらず「神を信じるという」遺言を残しており、ミリエル司教の描き方にもその考えが反映しているようだ。

 ミュージカル映画で、多くの人から愛されているのは第二次大戦下のオーストリアザルツブルグを舞台にした「サウンド・オブ・ミュージック」だろう。映画館に足を運んで以後、テレビで何度も見たが、いつも新鮮さを失わない魅力がある。この映画もそれに匹敵する作品として後世に残るかもしれない。

 追記 13日に発表されたアカデミー賞の前哨戦という位置付けの第70回ゴールデン・グローブ賞で、この映画はイランの米大使館占拠事件を描いた「アルゴ」とともに「作品賞」を受賞。ヒュー・ジャックマンが主演男優賞、アン・ハサウェイ助演女優賞に輝いた。2人の演技、歌は光っていた。ハサウェイが金に替えるため長い髪をバッサリと切るシーンの、悲しみの表情は印象に残るだろう。