小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1524 ボブ・ディランのノーベル文学賞 サルトルは拒否したが……

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《「キューバ危機」の時、ディランは、ソ連からの攻撃を想定した小学生の頃の訓練を思い出していたのかもしれない。》

  今年のノーベル文学賞に米国のシンガーソングライター、ボブ・ディランが選ばれた。冒頭の文章は、高橋郁男著『詩のオデュッセイア』(コールサック者)で、ディランについて触れたものだ。ディランといえばキューバ危機の直前に吹き込んだ「風に吹かれて」という歌(フォークソング)がよく知られている。高橋さんは朝日新聞のコラム「天声人語」を担当したことがあるコラムニストで詩人だ。高橋さんの訳によれば、この歌の冒頭部分は以下の通りである。

  

 どれだけの 道を辿れば 人は認められるのか

 どれだけの 海を渡れば 鳩は砂浜に安らげるのか

 どれだけの 弾が飛べば 砲撃は永遠(とわ)に止むのか

 その答えは 友よ 風の中にある

 答えは 風に吹かれている

 「風に吹かれて」は1960年代、世界の若者たちの間で歌われた反戦歌だった。高橋さんは「彼の『How Many』の問いかけは21世紀の今もなお古びず、切実に感じられる」と書き、その背景を以下のように指摘している。

 「核兵器による世界崩壊の脅威や強大な国々の専横・暴走、戦争、テロ・暗殺、不平等・差別などを生む世の中の構造が、半世紀経った今もさほど変わっていない」

  あらためて、この歌を聴いた。一種の諦観が漂っている。来日したジョーンバエズが歌い、日本ではさらに有名になった。バエズは英語で歌いながら最後の一小節だけは、日本語で「帰ろうよ、空吹く風が知っているだけだ」(野上彰訳)と歌っていた。

  歌とは何だろう。喜びの時、嬉しい時、悲しい時、寂しい時、悔しい時、いつも私たちのそばにいてくれるものだ。そして、時代が変わっても色あせず、懐かしさに涙がこぼれるほどの名曲がある。「風に吹かれて」もその一曲に入るだろう。

  高橋さんはディランの章の最後にこう書いている。

 「ディランが今どこに居て何をしているにせよ、同じこの星の上で共に息を吸い、息を吐いていると思うと、悠久・無限の時間の中で『時を共にしている』という偶然の妙と、いずれは誰しもが別れゆくという厳しさとを、改めて感じさせる」

  高橋さんは、ディランがいつの日かノーベル文学賞を受賞すると、考えていたのかもしれない。

  友人の国吉辰俊さんが、かつて四国遍路の途中にディランの句を詠んだと連絡してきた。飄々とした雰囲気の国吉さんらしい句である。

  阿波遍路風に吹かれてボブディラン

  追記 受賞の発表をしたスウェーデン・アカデミーとディランの連絡がつかず、ディランは受賞について一切コメントしていない。さらに公式ウェブサイトに一時出されていた「ノーベル文学賞受賞者」の文言が削除されたため、受賞を拒否するのではないかという観測も出ている。フランスの実存主義の哲学者ジャン=ポール・サルトルが1964年に文学賞を拒否(辞退)しているが、ディランもそうするのだろうか。

 

 1367 『風に吹かれて』と『ティアーズ・イン・ヘヴン』 時を超えた名曲