小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1069 ことしも本を読もう 「チャ―ズ 中国建国の残火」 年末年始に目を通した3冊(1)

画像 年末年始、暇にあかして3冊の本を読んだ。ノンフィクション、小説、評伝という全く異なる分野の単行本だ。ことしも私の読書は一貫性のない、行き当たりばったりのものになりそうだ。それでいいのだと思う。これから読もうと購入した本もエッセー、小説、自伝である。

 2013年は何冊の本が読めるのだろうか。 年末年始に読んだ3冊は「卡子 中国建国の残火」(遠藤誉、朝日新聞出版)、「神去りなあなあ夜話」(三浦しをん徳間書店)、「正岡子規」(ドナルド・キーン著、角地幸男訳、新潮社)だ。以下、その感想。

 「卡子 中国建国の残火」。筑波大名誉教授の遠藤誉が7歳当時、中国東北部(旧満州)で体験した過酷な記録である。遠藤は1984年に「卡子 出口なき大地」(読売新聞社、後に文春から文庫本に)という本を出している。 (その内容=1948年、旧満州では国民党軍の支配下にあった長春共産党軍が包囲して兵糧攻めにした。市民は飢餓に陥り、脱出を計ったが、行く手を共産党軍に阻まれ、狭い緩衝地帯に閉じ込められて地獄のような日常が出現した。この本は7歳の少女の目で見たその地獄の街の状況を描いている)

 卡子は、中国語でピン・クリップと関所・検問所の意味だ。太平洋戦争後、中国国内では国民党軍と共産党軍との内戦が発生し、遠藤一家が避難生活を送った長春は国民党軍の支配下にあった。これに対し毛沢東共産党軍は長春を食糧封鎖し、多くの長春市民が犠牲になり、その数は30数万に達したという。

 遠藤一家は地獄のような長春で過ごし、かけがえのない弟など家族の一員を失いながらようやく卡子(検問所)を抜け出し、生還する。 この本の中で、遠藤は毛沢東長春包囲作戦について「長春を死城たらしめよ」「誰が人民を食べさせるかを人民に知らしめること。人民は自分を食べさせてくれる側につく」と司令官の林彪に冷酷な指示していたことを明らかにしている。

 これが長春で多大な犠牲を生んだ背景だったのだ。 遠藤が最初の本を出したのと同じ年、私は旧満州を旅した。中国残留孤児といわれる人たちを訪ねるのが旅の大きな目的だった。 今回、遠藤の本を読んだ後、当時の旅の記録を引っ張り出してみた。21日間の旅行記である。長春についてはこんなことが記されていた。

長春はかつて悲劇が起きた都市であった。旧満州国時代は政庁が置かれ、ソ連の侵攻で難民がここに集まったが、中国共産党と国民党との間の内戦で日本人難民だけでなく、中国人も含めて共産党は食糧封鎖の戦法を取り、多くの餓死者を出したうえで長春を解放したのである」。

 あの旅から、ことしで29年になる。当時、旧満州各地で私たちは珍しい存在の日本人として見られた。私たちが乗った車が100人以上の人たちに取り囲まれたことも何度かあった。長春の夜、ホテルの前の公園で日本語を勉強している10数人の若者と話をした。現在のような日中間の亀裂はなく、若者たちは私に好意的だった。

 この夜の記録には「長春の街はダイヤモンドがあちこちに点在したように、家々の灯りがキラキラ輝いていた。この美しい街で、かつて悲劇が繰り返されたとはとても思えない。平和こそが大事なのだ」と書いた。(続く)

以下、 中国残留孤児に関するブログ。

http://hanako61.at.webry.info/201001/article_3.html http://hanako61.at.webry.info/200707/article_3.html http://hanako61.at.webry.info/200612/article_2.html http://hanako61.at.webry.info/201001/article_7.html http://hanako61.at.webry.info/200902/article_13.html