小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1056 知恵と独創性と躍動感と 「TOKYOオリンピック物語」

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『「宗谷」の昭和史』に続き、ノンフィクション作品を読んだ。昨年、東日本大震災発生直前に発売になった『TOKYOオリンピック物語』(野地秩嘉著、小学館)だ。震災直後に購入したのだが、当時は茫然自失状態にあり、手に取ることなく本棚の片隅に放置していたのを思い出して引っ張り出した。

 戦後の経済の高度成長時代の1964年(昭和39)に開催した東京五輪。前を向いて歩き続けた良き時代の象徴ともいえるオリンピック開催を各方面から支えた人たちのストーリーだ。

 オリンピックという歴史的イベントを経験した人たちは、自分の歩みの中で東京五輪をどのように位置付けているのだろうか。当時、横浜に住んでいた私は東京の方向を見ながら、開会式当日(10月10日)の青空を見つめたことを覚えている。

 オリンピックの各競技は、テレビで見たのかラジオで聞いたのかはっきりとした記憶はないが、高校の同級生が出場したこともあって五輪への興味は人一倍強かった。そのためか、美しい映像になった市川崑監督の映画は2回も見ている。

 この作品は自分の専門分野で東京五輪に協力、アジアで初めてのオリンピック開催を成功に導いた人たちを取り上げたノンフィクションだ。成長が止まり、閉そく感が漂う現代からみると、当時は躍動感にあふれた時代だった。

 本の中で取り上げられたのは、グラフィックデザイナーの亀倉雄策、オリンピックの競技記録に電子システムを導入した日本IBMの技術者竹下亨、市川監督、警備保障会社・セコムの飯田亮、帝国ホテルシェフの村上信夫らである。

 15年に及ぶ取材の蓄積をこの本にまとめたというから、前回読んだ宗谷の物語と同様、粘り強く取材した作品であり、ブログでさらりと書くのは申し訳ないとも思う。 それはともあれ、登場人物たち一人ひとりのオリンピックとのかかわりを読むと、知恵や独創性を働かせて一大イベントを支えたことが理解できる。

 それは当時の日本社会全体の動きとも共通する、何はともあれ前に進もうとする姿勢だったのではないか。 この本の中で著者は、戦後の日本が奇跡的に復興したことについて、実業家と作家の2つの顔を持ち堤清二ペンネームは辻井喬)が『叙情と闘争』という回顧録の中で次のように分析していることを紹介している。

「僕は敗戦後の日本経済の躍進の大きな要因のひとつに、経済外的な条件の変化がもたらしたものではあるが、指導者が一斉に若返ったことがあると思う。この、『一斉に』というところが実は大切なのだ。というのは個々の企業が若返っても、社会のシステムが若返っていないと、若さが貫徹しないからである」

 前述の5人を見ても、東京五輪当時、亀倉と市川が49歳、村上が43歳、竹下が32歳、飯田は31歳だった。平均年齢は41歳弱だ。いまなら、こうした大イベントに登場する人たちは「大御所的存在」であり、年齢的にももっと上の階層になるだろう。

 現代のことを成熟化した時代といえば聞こえはいいが、当時と比べれば柔軟な発想や思考が失われた時代になっているのは間違いない。それは、老人たちが跋扈する政治の世界にも反映していると言っていい。