小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1055 大槻3代を生んだ一関 復興見守る世界遺産・平泉中尊寺

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 岩手県の平泉がユネスコ世界遺産(文化)になったのは、東日本大震災直後の2011年6月26日だった。日本の文化遺産では12番目の登録だ。もちろん、被災地東北では初の文化遺産登録である。その中心となるのが中尊寺であり、中でも金色堂だ。

 過去2回、中尊寺に行きながらが金色堂の内部を見ることはできなかった。今回3度目の正直で、まばゆいばかりの金色堂の内部見学が実現した。 昔から平泉の玄関口といわれた岩手県の一関に行く。

 JR一ノ関(JRの駅名にはカタカナのノが入っている)駅前には「大槻3代」という銅像が建っている。大槻玄沢杉田玄白前野良沢の教えを受け蘭学の先駆者となる)、大槻磐渓(幕末の儒学者佐久間象山福沢諭吉と親交があった)、そして大槻文彦である。3人とも歴史上の人物として知られている。

 文彦は17年の歳月をかけて日本初の辞書「言海」を著した。 3代のトップにいる玄沢が一関出身で、その6男が磐渓、そして磐渓の3男が文彦だ。ほかにも大槻家からは優秀な人材が多数輩出しており、大槻家のDNAは飛び抜けているのだろう。

 ことし読んだ本の一冊に三浦しをんの「舟を編む」がある。大辞書づくりに情熱を注ぐ複数の人たちを描いた小説だ。この小説の中でも度々取り上げられる言海の編者である文彦は、たった一人で困難な言葉の海(文彦の生涯を描いた高田宏の伝記文学の題名)を航海し、大事業を成し遂げる。

 一関はかつて平泉の入り口といわれただけに交通の要衝であり、軍事的にも重要な地域だったという。現在はJR一ノ関から東北本線で盛岡行きに乗り、2つ目が平泉になる。12月に入り、平泉を訪れる人はそう多くない。2両編成の東北本線の車内もまばらだった。駅前から1回190円の市内循環バスに乗る。

 女性の運転手がガイド役を兼ねている。中尊寺前で降りると、外国人(欧米系)の団体が寺からの下り坂を下りてきた。世界遺産になって、国内だけでなく外国からの観光客もかなり増えたそうだ。 坂道をゆっくりと上り、中尊寺へと向かう。木々の葉はほぼ落ちているが、葉を残しているもみじの木も見かける。

 本堂で東日本大震災の犠牲者の冥福を祈ってから、近くの峯薬師堂に行くと、境内は落葉で埋め尽くされ、年配のの女性グループが嬉々としながら落葉を拾い集めていた。 覆い堂の中にある金色堂は「堂」という名称がついている通り、こじんまりしたものだった。

 藤原3代の歴史の案内放送を聞きながら黄金の金色堂を見ていると、かつての平泉の興隆ぶりが頭に浮かんできた。それから900年という気の遠くなるような時が流れ、東北地方は未曽有の大震災に見舞われた。焼失を免れいまも燦然と輝く金色堂は、そうした歴史を静かに見守っているかのようだ。

 以前のブログにも書いているが、私が初めて中尊寺を訪れたのは1973年11月だから、39年前のことだ。この寺で得度した作家の瀬戸内寂聴さんはいまも現場主義を貫き、京都から度々被災地に足を運び、被災者たちの心の支えになっている。

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写真 1、一関駅前の大槻3代の銅像 2、中尊寺金色堂 3、中尊寺本堂近くにある峯薬師堂 3、