小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1054 被災地を歩く 原発事故・福島の12月

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 東日本大震災の被災地は広範囲に及んでいる。しかも、原発事故に見舞われた福島の被災地では復興の道筋が容易に立たない。衆院選挙の公示日の4日から数日、被災地を歩いた。(ことしは9回目で昨年も同じく9回被災地を歩いているので、18回目だ)

 5日の新聞の一面は全国紙と地方紙では全く違っていた。全国紙の被災地への冷淡さに愕然とした。だが、被災地では地道に復興に取り組む人たちに出会い、心は温かかった。 5日朝、岩手県で見た新聞はこんな見出しになっていた。

 岩手日報=「震災後初の審判 復興問う」。

 河北新報=「復興への針路問う」。

 朝日=「小選挙区1294人立候補 政権枠組み焦点」(読売、毎日も似たり寄ったりで、メモするのがばからしくなったのでやめた)。

 岩手の県紙である岩手日報宮城県を中心にしたブロック紙河北新報は、「復興」を選挙の争点として打ち出していた。当然のことだ。それに対し朝日は、選挙後の政権の枠組みに目を向けている。

「第三極」といわれる政党が次々に誕生した。その公約は入り乱れていて、正直何が何だか分からない。得をするのは自民党ばかりと思っていたらその方向に進み、争点なき選挙の様相を呈している。全国紙を見る限り、そんな印象が強いのだ。だが、東北の被災地では、復興こそが争点といっていい。

 福島県いわき市のJRいわき駅に近くに「夜明け市場」という看板が出ていた。バブル時代には、40メートルの小路に30軒の飲食店が建ち並ぶ「白銀小路」として知られ、歩いていると人にぶつかってしまうほどのにぎわいがあった通りだった。

 だがバブル崩壊後は、次々に飲食店がやめていき、日本全国にあるシャッター通りの一つになった。このシャッター通りを昔日の、にぎやかな通りに戻そうと思ったのがいわき市出身で、東京で食品のPRやイベント事業を行う会社を経営している鈴木賢治さん(30)と松本丈さん(30)の2人だ。

 彼らは小中高校と同級生で親友だ。 鈴木さんの実家はいわき市内にあり、父親が営んでいた製氷会社の工場が震災で全壊した。しかも原発事故の影響が深刻で、故郷の福島から活気が失われてしまった。東京から戻り被災した故郷を見た2人は、自然災害と原発事故に手をこまねいているだけでは復興はあり得ない、地元が経済的に自立を図ることがカギになると考えた。それがシャッター通りの再生へとつながる夜明け市場の創設(2011年4月)に至るのだ。

 夜明け市場は、シャッター通りの店を改装して、起業家が店を再建するための管理運営のための株式会社で、出店希望者の募集、新商品開発の支援を行うのが業務である。夜明け市場の支援で2011年11月には2つの店が営業を始め、現在までに10店舗の飲食店が開店した。間もなくもう1軒がこの小路の仲間に加わる予定で、駅前の寂しかった通りはにぎやかさを取り戻しつつある。

 鈴木さんらの紹介でその1軒の魚菜亭をのぞいた。この店の北郷清治さん(57)は、いわき市内で同じ名前の和食料理店を経営していたが、大震災で自宅兼店舗が全壊し、途方に暮れながら避難所・仮設住宅暮らしをしていたという。商工会の紹介で鈴木さんらの取り組みを知って、この場所での店の再建に踏み切った。

 借金を返済できるかどうか不安を抱えてのスタートだったが、北郷さんの料理が評判を呼び、12人入れば満席の小さな店は入りきれないほどの客が来るようになり、北郷さんが「お客さんの半分は帰ってもらっており、申し訳ないと思っています」と話すほどの人気店になった。 北郷さんのこの1年を振り返る言葉が胸にしみた。

「震災で無収入になってしまった。働く場所もあまりなく、仕事を探すのは大変だった。みなさんのバックアップでもう1回店をやってみようと決心した。夢はあきらめるより、かなえるもの、追い続けるものだと思う。私が出した煮魚を食べて、ああこの味だと涙を流してくれた人がいた。店をやり直して本当に良かった」。

 今回の選挙にも、野田首相をはじめ松下政経塾出身者が多数立候補している。しかし、鈴木さんや松本さんたちのような、地に着いた活動を彼らがしているとはとても思えない。

 写真は、夜明け市場入り口に立つ松本さん