小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1052 南極観測船・激動の40年 「『宗谷』の昭和史」

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 目次の次の頁に「川南豊作とスメタニューク、そして矢田喜美雄の各氏に捧ぐ」とあるのを見て、「宗谷とどんな関係があるのだろうか」と思った。「『宗谷』の昭和史―南極観測船になった海軍特務艦―」(大野芳著)は、丁寧な取材ぶりから昭和の激動の歴史を体現したような、宗谷の誕生から東京の船の科学館に引き取られるまでの歩みを検証している。

 著者が名前を挙げた3人は、宗谷とかかわった多くの人々を代表する宗谷の歴史を説くキーワード的存在だ。ちなみに川南は宗谷を建造した長崎の造船会社の社主、スメタニュークは耐氷型貨物船3隻を発注したソ連通商代表部の機関技師、矢田は日本初の南極観測を企画した朝日新聞記者だ。

 宗谷はソ連の発注で建造され、ソ連船「ボロチャエベツ」として進水したにもかかわらず、第二次世界大戦直前の国際情勢下、ソ連に引き渡されることがなく1938年(昭和13)6月の竣工時点では耐氷型貨物船「地領丸」、続いて1940年(昭和15)6月の改装で特務艦「宗谷」となり、以降名前は変わらず、1945年(昭和20)9月には引き揚げ船、1952昭和27年6月から灯台補給船、1956年(昭和31)10月から南極観測船、1962年(昭和37)8月から巡視船―へと任務が次々に変わる。

 一番厳しい時代の太平洋戦争を乗り越えた宗谷は現在、お台場の船の科学館で一般公開されている。 特務艦として戦争の真っただ中の航海を継続しながら、沈没を免れたのだから、運が重なったとしても宗谷の生命力の強さは尋常ではない。

 南極観測で氷に閉じ込められた際には米ソ冷戦下の時代にもかかわらずソ連砕氷船「オビ号」に救援される。 南極観測を企画した矢田記者は、なぜか観測隊員に選ばれなかったが、この本を読むとその背景がよく分かる。

 第一次南極観測隊の隊長だった永田武・東大教授(当時)は強烈な個性の持ち主で、リーダーシップがあったが、矢田記者とはそりが合わなかったのだという。 日本の戦後の南極観測では永田や副隊長の西堀栄三郎が有名になり、縁の下の力持ち的存在だった矢田記者の動きはあまり知られていない。

 しかし、矢田記者の提唱がなかったなら、日本の南極観測のスタートはもっと遅くなったかもしれない。著者が本書を捧げる3人の中に矢田を入れたのは適切だと思う。 宗谷が長い航海の歴史にピリオドを打つのは1978年(昭和53)10月2日のことだった。

 解役式では当時の海上保安庁長官が「40年の長きにわたる間の国民の喜びと悲しみが、この船に込められています」とあいさつしたという。 著者は最後の宗谷の姿を「アラート・オレンジ色に塗装され、船の科学館の埠頭までタグボートに曳航された宗谷は、栄光と挫折、喜びと悲しみ、欲望と失意のすべてを包み込んで、やすらかな悠久のときを迎えるのである」と書いている。

「ノンフィクション取材には終わりがない」(著者)という。本書は大野の息の長い取材が反映された作品であり、宗谷という稀有な船のストーリーを通じて昭和という激動の時代を克明に描いた中身の濃い歴史本といえようか。