小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1051 心に残る福美ちゃんの絵 小児がんの子どもたちの絵画展にて

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11月もきょう30日で終わり、明日から師走に入る。日本人は楽しいことには気が早いのか、街ではもうクリスマスツリーを見かける。そのクリスマスツリーを自分の目で見ることを夢見ながら、病床で絵を描いた少女がいた。石川福美ちゃんだ。横浜のみなとみらいにあるパシフィコ横浜で開催中の「小児がんの子どもたちの絵画展」(公益財団法人がんの子どもを守る会主催、44点を展示)をのぞいた。その中の一枚が福美ちゃんの作品だった。

福美ちゃんの絵との初めての出会いは、4年前の2008年11月14日だった。千葉・幕張メッセで開かれた同じ、小児がんの子どもたちの絵画展に出品された作品の中で、福美ちゃんの絵に目を奪われた。当時のことを別の媒体(現代の風景という連載コラムの1回目)で書いた(79回目にも福美ちゃんのことに触れている)。少し長いが、以下に再掲する。

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★1支え合う小さな命 小児がんの子どもたち

21世紀は、なにやら混沌とした時代だ。科学技術は進化を続けているのに、人間の心は進化しない。争いごとがやまない時代を私たちはどう送ればいいのだろうか。この地球に生まれてきた以上、人を思いやる心といのちを大事にしたい。

そんな思いで現代の風景を文字で描いてみる。

私は2008年11月14日の午後、東京駅からJR京葉線に乗り、海浜幕張駅で降りた。埋め立て地帯に出現した幕張新都心の中心にある幕張メッセで開かれた小さな展覧会の「小児がんと闘う子どもたちの絵画展」(主催・財団法人がんの子供を守る会)をのぞいた。その会場で「石川ふくみ相談会」と書いてある1枚のポスターに目を奪われた。

急性の白血病で入院していた静岡県伊東市の石川福美ちゃんが、入院した病院でいろいろな人の悩み事相談に乗ったときのポスターだった。

それには「皆さん悩みってどこで作るのでしょう。知ってますか、それは心と気持ち!たった2つの見えないものがそんないやなものを作ってしまうのです。時によってうれしい幸せを運ぶことも、どんな悩みがあっても隠さずに言ってください。悩みを1つ抱えると、10個、20個、悩みが増えますよ。人生1つ、命1つ、悩みや困ったことを抱えて生きるのはもったいない。せっかくもらった命だから、楽しく、悩みや困ったことのない人生に」とあり、これを読んだだけで私の涙腺はおかしくなった。福美ちゃんは、文字通り、様々な相談を受け、とうてい小学生では考えがつかないような機知に飛んだ回答をする。

小児がんの子供の母親の相談。「お金が貯まらなくて困っているの」――答え「バスに乗ったつもりで歩き、つもり貯金をしましょう」

がん病棟の医師の相談。「仕事が忙しくて困っています」――答え「高い給料をもらっているのだから、忙しくて当たり前。文句を言うな」

同じく看護師の相談。「犬が夜吠えてうるさくて困っています」――答え「昼間ずうっと運動させて絶対に休ませなければ、夜は疲れて眠るから吠えません」

福美ちゃんと同じ部屋にいた結城桜ちゃんは福美ちゃんが骨髄移植のため無菌室に入る際、「ふくちゃんおうえんしてるよ」という絵を描いた。それも、福美ちゃんのポスターの隣に展示されていた。

2人は短い生涯を閉じる。福美ちゃんは8歳11ヵ月、桜ちゃんは6歳6ヵ月しか生きることができなかった。家族の悲しみは深かっただろう。絵画展を見て、帰路私は複雑な気持ちを抱いた。こんなに心が澄み渡った素晴らしい子どもたちが短い生涯しか送ることができないのに、私を含め命のありがたさに気がつかず、多くの人はともすれば命を粗末にしてしまう。

この絵画展は後日談がある。ことしになって、NHKがこの2人の話題をニュース番組「首都圏ネットワーク」の特集に組んだのだ。「悩み事相談会」と「応援しているよ」の作品を紹介し、病院で仲よしになった2人がどんな少女だったかを家族や看護師が証言した。福美ちゃんの母親の春美さんの言葉が印象に残った。

「(福美を含め子どもたちの)肉体はがんに蝕まれたけれど、(弱まる)体に反比例して子どもたちの心がどんどんきれいになって行きました。そして(子どもたちは)支えあって、ふだん、見えないものが見えてきたのだと思います」

NHKの報道については、事前に福美ちゃんのお父さんから連絡があった。私は家族にビデオに録ってもらい夜遅く1人で見た。涙がとまらなかった。何しろ特集を紹介したNHKの若い男性アナウンサーが涙ぐんだのだから、涙腺が弱くなった私が涙を流してもおかしくない。

近くに「こども病院」という子どもを専門にした病院がある。日常、その建物を目にしながら、何気なく通り過ぎていた。だが福美ちゃんと桜ちゃんのことを知ってからは自然に足が止まるようになった。この病院には2人と同じく、病気と闘いながら明日を信じる大勢の子どもたちが頑張っているのだ。

★79「病気になってからお父さんの笑顔を初めて見た」 難病の子どもが遊ぶ夢のキャンプ場

このコラムの1回目で「支え合う小さな命 小児がんの子どもたち」と題して石川福美さんと結城桜ちゃんの話を紹介した。2009年7月のことである。そんな難病と闘う子どもたちが外気を思い切り吸い、自然に親しむことができるキャンプ場がオープン間近になった。

北海道滝川市の丸加高原。天気がいい日には滝川の街並みと後方にそびえる暑寒別連峰を望む眺望抜群の森と草原が広がる。厳冬のある日、高原を訪問した。そこには難病の子どもたちを受け入れる「そらぷちキッズキャンプ」の建物があった。白銀の世界に包まれた建物を見ながら、福美ちゃんらが生きていたらこのキャンプ場にやってくる日があったかもしれないと考えた。

滝川市石狩平野の北部に位置する農業と工業の街だ。全国有数の栽培面積の菜の花の産地としても知られ、観光にも力を入れている。丸加高原はJR滝川駅から車で30分の位置にあり、この一角の16ヘクタールが難病の子どもたちのキャンプ場として形を整えつつある。既に事務棟、医療棟、食堂・浴室棟、宿泊棟2棟が完成し、森の中のツリーハウスも雪解け後には出来上がる。キャンプ場責任者の佐々木健一郎さんと医療担当の宮坂真紗規さんからキャンプ開設までのいきさつを聞いて、人のつながりの不可思議さを感じた。

佐々木さんは宮崎県出身で、大学を出た後大阪で造園コンサルタントとして病院の庭や公園づくりの企画、設計の仕事をしていた。そんな中で難病と闘う子どもたちの存在を知り、米国の俳優、ポールニューマンがコネチカット州に開設した難病の子どもたちのキャンプ場の視察に公園づくり関係者と一緒に出かけた。2001年11月のことだった。こんなキャンプ場を日本にも作りたいと考えた。

そのグループの若手の一人として資料を作り企画を練っている段階で、元日本小児がん学会会長の横山清七医師(元東海大学医学部小児外科教授、故人)、聖路加国際病院副院長の細谷亮太医師らも同じようなキャンプ場を作る構想を持っていることが分かり、一緒に活動を始める。米国視察の関係者の中に滝川市出身者もおり、同市が丸加高原の市有地をキャンプ場として無償提供する話が進んだ。

任意団体の「創る会」からスタートした活動は次第に具体化し、そらぷちキッズキャンプは一般財団法人を経て公益財団法人になった。キャンプ場の名前の「そらぷち」には2つの意味がある。1つはアイヌ語でこの地域が「そらぷち」(滝下る川)と呼ばれていたこと、2つ目は「ソーラー」が太陽、「プチ」が小さなという意味があることから「小さな太陽」=「子どもたちの笑顔」を連想することができるという。

キャンプ場づくりと並行して、2004年からは滝川市内でプレキャンプが始まった。3泊4日のキャンプは夏と冬に実施。これまでに20回を数え、多くのボランティアに支えられ、400人を超える子どもとその家族が参加した。滝川はグライダーの街ともいわれ、プレキャンプ参加者はグライダーや軽飛行機にも挑戦し空からの眺めを楽しむことができるのも人気を集めている。キャンプに参加した喜びを支えに成長し、大学に進学した関西地方の女子大生も、不自由な足にもかかわらずボランティアとしてやってきて佐々木さんらを感激させた。聖路加国際病院の小児科の看護師だった宮坂さんは04年のキャンプから協力、2010年春からは専従のスタッフとして滝川に移り住み、07年から常駐して奮闘してきた佐々木さの強力な援軍になった。

2人には忘れることができない思い出が多い。病院のベッドで馬に乗る練習をするなどキャンプを楽しみにしていた小児がんの女の子は、その夢がかなわず7歳で亡くなった。その思いを受け継いだ両親が女の子の写真を持ってキャンプに参加し、遺骨の一部を丘の木の根元に埋めた。両親にとっても、ここが心のふるさとになったのだろう。

キャンプに参加した子どもや親たちは多くの言葉を残した。

•僕が病気になってから、お父さんの笑顔を初めて見たような気がする。

•家に帰っても、1週間くらいキャンプのことはしゃべらなかった。もったいない気がして。

•再発して、再入院して、いやだったけど、またそらぷちに行けるのかなあ。

•家に戻ってから、もらったぬいぐるみがテーブルから落ちて、泣いちゃった。

•病気でも、キャンプに行けてみんなと遊べて楽しいこともあるんだ。

•ふだんは学校に行っても話せないけど、キャンプでは病気の話が自然にできた。

•大人になったら、ボランティアで来たい。話を聞いて、勇気を与えたい。

•だれにもこの苦しさは分からないと思っていた。でも、こんなに支えてくれている人がいるんだ。

•こんなにいろんなことができるんだ。しかも一人で積極的にチャレンジしている。

•お姉ちゃんがいなくなってから、息子の笑顔を初めて見た。家族で生きていこう。

キャンプ場が本格オープンするのは、ことし8月になる。白銀の世界から緑の草原へと変身した丸加高原。小鳥のさえずりの中で笑顔の子どもたちが陽光を浴びている姿を想像する。福美ちゃんと桜ちゃんも空から、後輩たちを見守っているかもしれない。

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絵画展の真ん中付近に福美ちゃんの絵があった。「無菌室のクリスマス」という題がついた福美ちゃんの絵は、クリスマスツリーの横に赤い服の女の子と白い服の男の子、さらに黄色服いのクマさんがいるメルヘンの世界だ。絵の上部には、サンタさんへのメッセージが書いてある。「サンタさんへ きれいな音色のオルゴールありがとう。大切にします。それとあとわざわざ病院にまで来てくれてありがとう。おかしがなかったからあめ玉でがまんして下さい。らい年はいっぱいおかしをおいておきます。「2004年12月25日 いしかわふくみ」

絵の下には、福美ちゃんのお母さんのこの絵に対する思いが書かれていた。

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消毒のできるものしか持ち込めない無菌室。これは備え付けのペーパータオルに書いたサンタクロースへのお礼の手紙です。福美は下血が止まらない身体で必死に手紙を書いていました。

福美の終末期、死後、そしてカルテ開示での病院の対応は私に不信感、憤り、憎悪の感情を植え付け、その感情は福美が亡くなった現実を認めず、前に向かって進みたいと願う私の心を阻止し苦しめました。

福美が亡くなって7年…この絵を見る度に心ある医療関係者との優しい小さな思い出が蘇り、福美の笑顔や頑張りが浮かんできます。

そして、無償の愛を提供して下さったドナーさん存在を思い出させ、私が天使になった福美の親として、どう生きるべきかを考える時間をもつことができました。

人を思う優しい心は「憎悪の炎」を消し、悲しみや憤りで傷ついた心を「感謝」に変えることができる素晴らしい治療であり薬です。

「人を思う優しい心」を処方して下さった皆様…ありがとうございました。

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福美ちゃんが絵を描いたのは8歳9カ月の時だった。それから2カ月後、彼女は短い人生を閉じる。だが、この絵は多くの人の心に残るものだ。少し離れたところには、結城桜ちゃんの「希望のアンパンマン」という絵が飾られていた。説明には「桜『最後の絵』子供病院にて。疲れてしまい、全部塗れなかった。6歳」という説明があった。

いま福美ちゃんは、桜ちゃんとともに天国で「ふくみ相談会」を続けているのかもしれない。

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(写真はパシフィコ横浜近くで)

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福美ちゃんのママへの便り

ふくみママ様

はじめまして、<仙>と申します。 <遊歩>さん(このブログの筆者)の友人です。

福美ちゃんの短くも、けなげな生き方を知り、感動し、感謝し、心から福美ちゃんの冥福をお祈りしております。小学校で教員をしておりますが、福美ちゃんの生き方について読ませていただき、思い出すことがあります。拙文ですが、ふくみママ様にも、お読みいただければ幸いです。(http://www.tomino-e.fks.ed.jp/shisei24-9-27/page001.htm

短くも、精一杯生きた福美ちゃん、桜ちゃん、そして、夏海ちゃん。みんなそれぞれに、私たちに大きなものを残してくれていると思っております。そして、それらを私たちが覚えている限り、大事にしている限り、みんな私たちの心の中で生きているのだと思っております。 感謝しております。