小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1576 消えた新聞の青春群像 増田俊也『北海タイムス物語』

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北海タイムス」という新聞があったことを北海道民の多くが記憶しているだろうか。1998(平成10)年9月に「休刊」宣言をして事実上の廃刊をしてからもう19年になる。この北海タイムスを舞台に、入社間もない整理部記者の苦闘を描いた増田俊也著『北海タイムス物語』(新潮社)を読んだ。経営が傾き、厳しい労働環境の中で整理部記者として自立を目指す主人公を通じて、新聞業界の裏の姿が克明に記されている。この本は、新聞人としてのスタートが北海タイムスだったという著者の「挽歌」のように私は思えた。  

 時代が昭和から平成に代わって2年目の春、全国紙には採用されず、ようやく北海タイムスの社員になった野々村巡洋が主人公である。給料は極端に低いうえ、配置されたのが新聞を編集製作する「整理部」だった。読者に配る紙面を作るのが仕事である。記事選び、レイアウトといった仕事は、職人的な要素が伴う。新聞社にとって重要な部門なのだが、記者を目指した若者には敬遠される地味な職場である。  

 ある新聞社の幹部から聞いたことがある。生意気な記者(取材して記事を書くことが仕事)に対して「次の異動で整理部に回す」と脅かすと、その記者はとたんに大人しくなるという。それほど若い記者は整理部に回されるのは避けたいと思っているのだ。

 配属が整理部と聞いて野々村もまさか自分がと思い落ち込み、取材部門に行った同期を羨む。そして、野々村を整理部で指導する権藤はまさに職人で、煙たい存在だった。だが、いつしか2人は師弟関係となり、権藤は新聞、整理に関する深くて広い知識を野々村に教え、北海タイムスを去っていく。  

 著者の増田自身、北海タイムスに入社して2年間働いたあと、名古屋に本社がある中日新聞に移り、2016年まで勤務した経歴を持つ。締切時間が迫る中での整理部の作業の活写など、自身の体験がこの作品に生かされていると思う。権藤をはじめとして野々村を取り巻くタイムスの社員が多彩で個性的だ。こうした「青春群像」ともいえる人間模様が、この小説を面白くしている。私の知る北海タイムスにも同様に、個性豊かな人たちがいた。  

 北海タイムスが戦後52年の歴史に幕を閉じたのは1998年9月1日で、2日付の最後の朝刊一面には「きょうで休刊します 道民と歩んだ50年の思い胸に」という見出しが付いた長い文章の社告が掲載された。その結びは北海タイムスで働いた人たちの「もう一度この新聞を」という願いが込められていた。

「私たち北海タイムスの社員は、半世紀にわたって読者・道民の皆さんと心を通わせて新聞を作ってきたことを決して忘れません。そして、いつの日か紙面を通じて皆様に再びお会いできることを信じて休刊宣言といたします。その思いを胸に、ペンを置き、カメラをしまい、そして最後の新聞を印刷し終えた輪転機を止めます」  

 しかし、北海タイムスが復刊するという話は聞かないし、実現は不可能に近いのが現実だ。インターネットの普及によって、新聞業界は読者離れが進み苦境に立たされている。政権批判を忘れて、政党機関紙的な紙面を作って恥じない新聞も目につくから、この業界の前途は極めて厳しいと言わざるを得ない。この本を読んで新聞業界に身を置く人たちの奮起を促したいと思うのは私だけではあるまい。

 •北海タイムスが廃刊に追い込まれたのは、東京3紙(朝日、読売、毎日)が1959(昭和34)年に北海道で現地印刷を始め、北海道も激しい読者獲得競争になったことが大きな要因だ。それまで全国紙は青函連絡船経由の鉄道輸送に頼っていて、札幌市内でも1、2日遅れの新聞しか届かなかったから現地の北海道新聞北海タイムスと競争できる体制になかった。

 だが、ファクシミリという電送技術の開発は現地印刷を可能とし、道内の新聞社は全国紙と競争を強いられることになった。北海道新聞は経営努力でこの競争に勝ち、販売部数も飛躍的に伸びたが、北海タイムスは太刀打ちできず部数がじり貧状態になり、経営危機が続いた。最終的には新しいオーナーと経営陣が対立するなどの内紛が起き、廃刊になった。