小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

979 教師の原点を振り返った知人の話 90年前の小野訓導の悲劇

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 教職にある知人から電話があり「小野訓導を知っていますか」と聞かれた。かすかな記憶の中に、それはあった。どこかでこの名前を聞いたことがあったのだろう。それは悲劇の女性教師だった。この女性教師を思い、教職を目指した知人は、最近ある偶然から小野訓導の縁戚者と出会った。定年を9カ月後に控えて、知人は教師としての原点を振り返る機会を持ったのである。

 小野訓導とは、宮城県白石市出身の小野さつきさん(1901年―1922年)のことだ。ウィキペディアによると、小野さんは宮城女子師範学校を1922年(大正11年)3月に卒業し、4月から宮城県刈田郡宮尋常高等小学校(現在の蔵王町立宮小学校)に訓導(現在の教諭)として赴任、尋常科4年の担任となった。7月7日、白石川河畔で野外での写生を指導中、児童3人が川の深みにはまって溺れた。

 小野さんは川に飛び込み2人を救出したが、残り1人の救出に向かう途中川の深みに足を取られ、児童とともに溺死した。教師になって71日目の悲劇だった。 この事故を知ったオペラ歌手が公演で追悼の歌を歌い、出版社は追悼の詩を募集するなど、小野訓導の名前は当時、全国的な話題になった。自分の命を投げ打った行為は教師の模範として称えられ、宮小には殉職記念碑と遺徳顕彰館がつくられた。

 ところで、知人(宍戸仙助さん)はなぜ小野訓導のことを連絡してきたのだろう。それには、こんな背景がある。宍戸さんは現在、福島県伊達市立富野小学校で校長をしている。昨年8月、県南部の東白川郡矢祭町立東舘小学校から異動した。富野小には2階ホール西側の壁に陶器のレリーフ(横3・7m、高さ6m)があり、宍戸さんはこのレリーフに興味を持ち、由来を調べてみた。

 教育委員会には詳しい資料は残っていなかったが、校舎が建て直された1989年にこのレリーフも制作されたことが分かった。タイル製造販売会社のデザイナーの小野康弘さん(55)が担当したもので、仙台に住んでいる小野さんと連絡がつき「子どもたちの健やかな成長を表現した」ものと分かった。

 小野さんは先日、宍戸さんの依頼で富野小に行き、子どもたちにレリーフに込めた思いを語った。その帰り際のことだ。小野さんはこんなことを宍戸さんに話したのだ。「実は小野訓導は父方の祖父の妹に当たり、私は訓導の縁戚関係にあるのです」と。宍戸さんは若き日、宮小にある殉職記念碑を見たことで教師になる決意を固めたというから、宍戸さんにとって小野訓導は、教師人生の原点ともいうべき大切な人だったのだ。 小野訓導の父親は厳格なことで知られているが、小野康弘さんの話によると、小野訓導が亡くなったことと、その経緯を知ったとき、「よく、死んでくれた。」と話したそうだ。

 解釈はいろいろできるだろうが、宍戸さんは、この言葉を「教師として生徒の命を助けるべく命をかけて取り組んだことを認め、賞賛した言葉であり、我が娘を愛し、いとおしむ父親の心を超越している」と推察する。 宍戸さんは父親のこの言葉を、危機的状況に陥った東電福島原発事故で、決死の注水作業をした東京消防庁隊員の夫を「平成の救世主になって」と送り出した妻の言葉と共通するものだと受け止めたという。

 小野訓導の死から90年。時代が大きく変わっても、小野訓導の心が日本人の中に生き続けてほしいと思うのは、宍戸さんだけではないはずだ。 レリーフを通じて心の支えである小野訓導へとたどり着いた宍戸さんは「教職人生の最後の年にまた『小野訓導と出会っているのですから、この後どんな意味のある偶然が待っているのか、心がときめきます』と、話している。

 人生はこんなことがあるから面白いのだが、前向きな好奇心がこうした偶然を生むのだと痛感する。 写真 レリーフの由来を話す小野康弘さん。