小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

938 「遠い『やまびこ』」とともに 厳寒続く被災地を歩く

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 3月に入っても寒い日が続いている中、東日本大震災の被災地を歩いた。福島県田村市宮城県東松島市。前者は原発事故で避難生活を送っていた障害者が暮らす共同住宅(仮設ではない)が完成し、その落成式に参加した。

 後者は震災以来、被災者たちの心の相談にのっている任意団体「心の相談室」が東松島市矢本町で開いたノンフィクション作家・柳田邦男氏の講演会・被災者との対話を聞きに行った。大雪をもたらす低気圧がやってきて、べた雪で足をとられそうになりながら、震災1年後の東北の一部を見た。

 テレビや新聞では「大震災から1年」の特集をやっている。だが、田村も東松島もひっそりとしている。JRの磐越東線(郡山―いわき)で郡山から船引まで行く。ここが田村市だ。タクシーの運転手は「郡山より原発には近いのにここの方が放射線量が低いんだよ」という。

 一方、仙台と石巻を結ぶ仙石線は、津波のため一部区間がバス代行になっている。途中の松島海岸で列車を降りバスに乗り換えて、矢本まで約50分。途中の海に近い集落(野蒜地区)は津波の襲われた住宅が荒れ果てたままに放置されていた。

 この旅の途中、佐野眞一著「遠い『やまびこ』(新潮社文庫)を読んだ。副題に「無着成恭と教え子たちの四十年」とあるように、昭和20年代の山形の山村の中学校の新任教師・無着と教え子たちのその後を追ったノンフィクションだ。

 無着の指導によって書かれた生活記録をまとめた学級文集が「山びこ学校」として刊行され、ベストセラーになるが、その刊行の経緯や無着と生徒たちのその後の40年が克明に記されている。 山びこ学校で全国的に有名になり、その後教育タレント的な生き方をした無着に対し批判が少くない。

 しかし、山びこ学校時代の無着は純粋だったのではないかと思う。無着のような教師が、もし津波で多くの子どもが犠牲になった石巻市の大川小学校にいたら、どうしただろうと、つい考えてしまった。 無着は生きる上で、最低でも「うそをつくな」「陰口をいうな」「ごまかしをするな」「する前に考えよ」「みんな力を合わせること」―が必要だと教えた。大津波に遭遇ししてもみんなで力を合わせ、困難でも山の方へと避難したかもしれない。

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 東松島市仮設住宅に一人で住んでいる77歳の男性は、一緒に避難した奥さんが息子から預かっていた犬を置いてきてしまったと自宅に戻り、津波にさらわれ行方不明になった。一人住まいの彼に対し多くの人が声をかけてくれるという。「仮設のみんなが私を囲んでくれている」という老人の言葉を聞いて「みんなで力を合わせること」という無着の言葉が蘇ってきた。この老人はカナダから激励にやって来た18歳の女性との交流の思い出を胸に、毎日を送っているという。(これについては、後日紹介したい)

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  写真は1、2とも野蒜地区の光景。3、は新幹線から見た仙台の街並み(後方にテレビ塔が見える)