小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

889 故郷はおまえの心の中にある ヘッセ「庭仕事の愉しみ」

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 果樹には、実がつく年とつかない年がある。我が家の一番大きな果樹であるユズは、外れの年のようで、例年なら取りきれないほどなるのに今年はたった2個しか見当たらない。 それでいて同じ柑橘系のミカンは枝が曲がるほど鈴なりになっているし、甘ガキもあたり年らしく、このところ毎日食卓を飾っている。

 近所の庭をのぞくと、同じ種類の果樹でも、我が家とは様子が違うところも目につく。自然界は一筋縄ではいかないのだ。 ヘルマン・ヘッセの「庭仕事の愉しみ」という本の中に「木」というエッセーがある。庭仕事を日課にしていたというヘッセの樹木に対する思いをつづったものだ。

 ヘッセほど庭仕事をやるわけではない。さらに「木は神聖なものだ。木と話をし、木に傾聴することのできる人は、真理を体得する。木は教訓や処世術を説くのではない。細かいことにはこだわらず、生きることの根本原則を説く」というヘッセの心境にはまだ至っていない。

 だが、いつかは庭の木と対話をしたいものだと思う。 エッセーの中には以下のような言葉もある。東日本大震災で被災者や原発事故で家を離れた人たちに聞いてもらいたいような優しさがある。

≪私たちが悲しみ、もう生きるに耐えられないとき、1本の木は私たちにこう言うかもしれない。「落ち着きなさい!落ち着きなさい!私を見てごらん!生きることは容易ではないとか、生きることは難しくないとか、それは子どもの考えだ。おまえの中の神に語らせなさい。そうすればそんな考えは沈黙する。おまえが不安になるのは、おまえの行く道が母や故郷からおまえを連れ去ると思うからだ。しかし一歩一歩が、一日一日がおまえを新たに母の方へと導いている。故郷はそこや、あそこにあるものではない。故郷はおまえの心の中にある。ほかにどこにもない」≫

 ヘッセが晩年に住んだ家の庭には、シュロ、ツバキ、シャクナゲモクレン、イチイ、アカブナ、インドヤナギ、タイサンボクがあった。最も美しいとヘッセが愛した「ユダの木」の古木は嵐によって倒れてしまったという。ヘッセは「老木の死を悼む」という作品で、この木を失った寂しさについても書いている。

 地中海原産のマメ科の落葉高木でユダの木のほかに「セイヨウハナズオウ」(日本にもあるハナズオウは落葉低木)あるいは「ケルキス・シリクワストルム」とも呼ばれている。キリストの12人の弟子のうちの1人で、キリストを裏切ったイスカリオテのユダが、この木で首を吊ったという伝説からこのような名前がついたのだそうだ。

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 秋の気配が強くなってきてさすがに藪蚊はいなくなった。ヘッセを見習って庭に出てみるのも悪くない。