小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

851 甲子園に響いた日大三高の校歌 作詞者山本正夫の孫の思いは

 

 

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 夏の甲子園高校野球全国大会で、東京代表の日大三高が青森代表の光星学院を11―〇でくだして優勝した。「見よや 麗わしの誠の光昇る旭日に ほのぼのと・・・」という(小林大次郎作詞、山本正夫作曲)日大三高の校歌をテレビで聞いた。 負けた光星の選手たちや青森、東日本大震災の被災地の人たちはどんな思いでこの校歌を聞いただろうか。

 日本には「判官びいき」という言葉がある。兄の源頼朝を助けながら、最後には頼朝によって滅ぼされた源義経の生涯が語源だ。「義経を薄命な英雄として、愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情やひいき」(広辞苑光星は弱者ではないが、大震災で手ひどい打撃を受けた青森を含む福島、宮城、岩手の東北地方は、まさに判官びいきの対象といっていい。

 私も当然のように、テレビを見ながら光星を応援し続けた。秋田投手が力尽き、日大三高打線に打ち込まれた。でも、よくやったと思う。それは被災地だけでなく、多くの高校野球ファンの気持だったのではないか。

 そして、日大三高の校歌が甲子園に響いた。山本正夫の曲を聞きながら昨年実現しなかったこの校歌をようやく聞いたと思った。しかし心が叫んでいる、光星の方も聞きたい、と。 昨年3月、日大三高は、甲子園のセンバツ大会で決勝まで進み、夏も優勝した沖縄興南に10―5で敗れ、優勝チームをたたえる校歌は聞くことはできなかった。

 なぜ、日大三高の校歌にこだわるか。実は作曲者の山本正夫の方に縁があるからだ。既にこのブログで山本正夫については何回も触れている。詳しくは過去のブログ()を読んでいただきたいが、このブログに登場する山本正夫の孫の晴美さんも、たぶん複雑な気持ちで校歌を聞いたのではないかと想像する。

 祖父の曲が甲子園に響いたのはうれしいが、東北の被災地を思うと、心の底から喜べない・・・。 日大三高は、1891年(明治24年)に創設された高等商業予備門から、今日の高校野球の強豪校になった。この年、前回のブログで書いた俳人正岡子規は、徒歩で房総の旅に出ている。

 子規は野球好きでも知られている。短歌も書いた子規は野球の歌を残している。120年が過ぎても、これらの歌が色あせないのはなぜなのだろう。

 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ(若者のたくさんの遊びはあるが、野球以上のものはない) 九つの人九つのあらそいにベースボール今日もくれけり(9人と9回の野球できょうも暮れてしまった) 今やかの三つのベースに人満ちてそゝろに胸のうちさわぐかな(ツーアウト満塁、心はハラハラどきどきだ) (★光星の3選手が飲酒をしたと、騒ぎになっている。大会は終わってしまった。さてさて・・・8・22)