小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

850 「苦労した写真の後でうなぎ食べ」 青年・子規の房総の旅

画像俳人正岡子規(1867年10月14日―1902年9月19日)は、34年の短い生涯で、5つの長旅をしているという。その1つが24歳の時の「房総の旅」だった。この旅で子規は、明治4年創業の千葉の老舗うなぎ店「やすだ」に立ち寄り、蒲焼を食べている。 子規はいまでいうグルメともいうべき美食家だった。結核に冒され療養していても食欲が旺盛だったことはよく知られている。青年・子規は房総の旅の途中、なぜ「やすだ」に行ったのだろう。最近「やすだ」に行く機会があり、その間の事情を知った。 子規の生涯に詳しい戸田茂樹氏によれば、5つの旅は「水戸の旅」(22歳、5日間)、「房総の旅」(24歳、9日間)、「木曽の旅」(24歳、10日間)、「奥羽の旅」(26歳、33日間)、「日清戦争従軍」(28歳、44日間)ということになる。房総の旅当時、東京帝大(現在の東大)の学生だった子規は神経の病や学問への疑問に直面、気分転換と自分探しのために明治24年(1891)3月、9日間をかけて房総一周の徒歩の旅に出る。 上野―市川―船橋―佐倉―馬渡―千葉―小湊―館山―鋸山を周り、ここから船便で帰京したという。「やすだ」に寄ったのは3月27日のことである。
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「やすだ」の女将・安田徳子さんがこのことを知ったのは、東日本大震災のあった3月11日だった。千葉県内に住む書家で子規の研究をしている人が裏付け資料とともに説明してくれたのだそうだ。徳子さんは「その最中に大きな揺れがあったのです」と、当時を思い出しながら、子規の来店事情を話してくれた。 資料によると、子規は房総の旅で、3月27日朝、馬渡村(現在の佐倉市馬渡)を出て、正午ごろ千葉に着いた。そこでやすだの近くにあった豊田尚一の写真店(当時は写真師といった)で、旅姿を撮影した。(詳しくは後述)この後、「やすだ」に立ち寄ったらしい。子規の紀行文「かくれみの」にはその時のことが次のように記されている。当時、千葉の写真店は豊田の店だけで、撮影の後に目の前にあったやすだに立ち寄ったのは間違いないと推測できるという。 《千葉にて鰻飯ヲ喫ス 速成感スルニ堪ヘタリト雖味美ナラズ 香の物ハ則美ナリ しゃもハ甘かりき 鰻店ヲ出ツ 行クコト數丁忽チ竹杖ヲ忘ル 引返シテ取リニ来ル 寒川ヨリ海岸ニ出ツ   遠淺や雲までつゝく汐干狩》 徳子さんによると、子規はこの時、蒲焼を食べたらしいという。「速成感スルニ堪ヘタリト雖味美ナラズ」という記述はカッときたと、徳子さんは語る。看板の蒲焼をまずいと書き、漬物はおいしいというのだから、怒るのも当然だ。関西と関東ではうなぎの料理法が違うという。関西では直焼きするために歯ごたえが楽しめるし、関東では蒸してから焼くとのでふっくらとした食感が特徴だ。 「四国育ちの子規は関西風の直焼きになれていたため、やすだの味を評価しなかったのかもしれない」とは徳子さんの解説だ。以前、高知県四万十川近くでうなぎを食べたことがあるが、確かに歯ごたえがあって、関東風とは違っていたことを覚えている。 ところで、写真を撮った当時、子規の体はまっすぐに背筋を伸ばすことができないほど、くにゃくにゃとしていたらしい。そのために背中に竿を入れるなど悪戦苦闘の撮影だったらしく、終わった後は豊田も子規も疲労困憊だったという。画像 いまも残るその写真の子規は、背筋もピンと張った旅姿の青年として写っている。戸田氏は、房総の旅は子規にとって俳句に傾斜し、松尾芭蕉への意識が強まった契機であり、俳人・俳句研究家としてスタートを切る重要な旅だったと指摘している。 それにしても、昨今の正岡子規の人気は大変なものだ。「やすだ」に私が行ったのも、知人たちが「子規を語る会」という会合を開いたからだ。2009年から司馬遼太郎の代表作である「坂の上の雲」がNHKドラマとして12月に限って放映されている。 明治の軍人、秋山好古秋山真之兄弟と子規の3人を軸に、近代化に歩む明治時代の日本の姿を描いたもので、3年目のことし12月に最終回を迎える。このドラマが子規の人気をさらに高めているのかもしれない。暑い日々、120年前に子規が食べた蒲焼を思いながら、私も「やすだ」のうなぎを味わった。 (やすだは、千葉県庁近くの市場町にある)