小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

615 聞かれなかった日大三高の校歌  山本正夫の名曲

 春の選抜高校野球は、沖縄の興南が東京の日大三高を延長戦の末、10―5で破り、初優勝した。 興南の島袋と日大三の山崎の両エースとも疲れていたに違いない。しかし、それを感じさせない投球は、素晴らしかった。本音で言うと今回は山崎君の日大三を勝たせたかった。それは、個人的に同校の校歌を聞きたかったからだ。

 「復活した校歌の物語」を4回に分けて書き、最終回に作詞、作曲者の山本正夫の直系の孫である晴美さんに会ったことを記した。 甲子園に出ている日大三高の校歌も山本の作曲であり、晴美さんが園長をしている帝都幼稚園を訪問した際、ちょうど同校が勝ちNHKテレビを通じて流れた校歌を聞いた。その日は準々決勝だったが、次の準決勝も勝って日大三高興南と決勝戦を迎えたのだ。

 そんな経過もあって、正直なところ日大三の校歌を聞きたいと思った。山崎投手は2年前に脳腫瘍の手術をしたうえ、昨年秋に投手に転向したばかりというから、勝たせてやりたかった。 テレビで見ていると、彼はクールな表情で投げ続けた。ピンチになっても顔色を変えない。難病を克服した精神力の強さなのだろうか。彼は定期健診に通う病院で、小児がんの少年に会い、励ましたという。難病と闘う子どもたちにとって、山崎君は希望の星なのである。

 日大三高は、1891年(明治24年)に創設された高等商業予備門が始まりで、校歌は小林大次郎が作詞し、山本正夫が作曲した。山本の孫の晴美さんも、センバツの決勝戦を見ながら、祖父の曲を聞きたいと思ったのではないか。 その思いはかなわなかったが、準優勝に終わった悔しさをばねに夏の大会でも奮闘するだろうから、決勝戦後にあの校歌を聞くことができるかもしれない。

 日大三高は、夏は2001年に優勝し、センバツでは1971年に優勝し、翌年も準優勝している。1962年も準優勝をしているので、今回で準優勝は3回目だ。3回の中でことしはとりわけ重みのあるNO2だったと思う。