1903「星月夜」に一人歩いた少年時代 想像の旅フランス・長野・茨城・富山へ
ゴッホが、代表作といわれる『星月夜』(外国語表記=英語・The starry night、フランス語・ La nuit étoilée、オランダ語:・De sterrennacht=いずれも邦訳は星の夜)を描いたのは1889年6月、南フランスのサン・レミ・ド地方プロヴァンスにある修道院精神病棟だった。
日本では星月夜は「月は出ておらず、星の光で月夜のように明るく見える夜」のことを言い、秋の季語になっている。しかし、ゴッホの絵は夏に描いたもので、右上方に大きな三日月が描かれている。月が出ているのだから、日本でいえば星月夜ではない。だれがこのような日本語に訳したのだろうか。だが、この絵の題はセンスがよく、ロマンもあって違和感はない。
この絵は、部屋の東向きの窓から見える日の出前の村の風景を描いたものだという。ゴッホは弟テオへの手紙の中で絵について「今朝、太陽が昇る前に私は長い間、窓から非常に大きなモーニングスター(明けの明星・金星)以外は何もない村里を見た」と書いている。左下から延びる糸杉、右手には教会の尖塔や村の建物があり、背景には青黒い山並みがあり、上空には星々が輝く。中でも明けの明星がひときわ輝いている。星々の軌跡は渦を撒くように白く長く伸び、右上方には三日月が大きく描かれている。
日本各地には星空が美しい地域が点在している。例えば、長野県阿智村(中国残留孤児の救済に生涯をささげた山本慈昭さんが住職を務めた長岳寺はこの村にある)のもみじ平や茨城県と福島県境の茨城県常陸太田市里川町里美牧場は、美しい星空を見ることができることで知られている。
私も星空がよく見える田舎で生まれ、育った。夜空にきらめく星があるのは普通と思っていたから、部活で夜になってから家に帰る途中、星が輝いていても気にもとめなかった。そのころ「星月夜」という言葉も知らなかった。今になって思うと、限りなく輝く星月夜の下を一人で歩いたり、自転車に乗ったりしていたはずだ。立ち止まって星空を見上げていれば、もう少し感性が豊かになったな、惜しいことをしたなと思う。
「われの星燃えてをるなり星月夜」。高浜虚子の句だ。虚子は写実主義の俳句で知られるが、この句は主観と客観を混在させたものだそうで「星」は虚子自身のことを指すという。虚子の師である正岡子規の短歌「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」を踏まえて読んだ句といわれるが、私は双方ともに大きなスケールを感じる。
コロナ禍の影響で車の移動が少なくなったこともあり、空気が普段の年よりきれいでこのごろは星がよく見えるという話を聞いた。間もなく新暦の七夕だ。子規の短歌のように、こちらを向いて光る星にコロナ禍の収束を願ってみたいと思う人は少なくないかもしれない。
前々回のブログにも書いた宮本輝の『田園発港行き自転車』(集英社文庫)の中に、ゴッホのこの絵を連想させる舞台として、富山県入善町の黒部川に架かる愛本橋を登場させている。私は地図を見ながら小説に出てくる心優しき人たちが、この橋の真ん中で満天の星を見ている姿を想像する。