小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

886 被災地の人々に希望の灯を  震災を書き続けるジャーナリスト

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 仙台に住む知人で、元NHK社会部記者の松舘忠樹さんは、アマチュアオーケストラのコンサート・マスターを務めながら、定年後の生活を楽しんでいた。そんな松舘さんの生活はことし3月11日の東日本大震災で大きく変わる。

 現役記者時代、災害報道を担当した松舘さんはつぶさに被災地の状況を取材し、日記形式で震災に対する思いを綴り続けている。

 「災害は忘れないころにやって来た」「災害が教えるこの社会の虚構」「人々の心に希望の灯を」「私たちの防災報道は住民の心に届いていたのか?」と題する報告は、読む者の心を打つ。前回紹介した角田光男さんと同じ時代に東北で記者としてのスタートを切った松舘さんの話を書く。

  ▼人間のはかなさ

 松舘さんは青森県の出身で、NHKでは長く社会部記者をしていた。青森放送局長を最後に退職、仙台のNHK文化センター総支社長を務めた。若い記者時代と文化センター総支社長としてね2度勤務した仙台を定年後の生活の場に選んだ。バイオリンが趣味で、地元の仙台シンフォニエッタというオーケストラのコンサート・マスターもしている。震災の時間帯は自宅近くのスポーツジムにいた。軽く運動し、風呂から上がった直後に大きな揺れがあり、震災との闘いが始まる。

  下着姿で風呂の扉にしがみついていたまま揺れが収まるのを待った松舘さんは、車で自宅へと帰り、ライフラインの止まった自宅で余震におびえながら、一夜を明かす。

  翌日、仙台放送局に駆け付け、玄関受付で安否情報の依頼の対応を手伝う。9日目の3月19日からは、仙台放送局で被災者向けラジオのライフライン情報の原稿整理のデスク役を報道出身のOB5人で受け持ち、6月3日まで77日間にわたって交代で取り組んだ。松舘さんは自身の生活を含めた仙台の状況を書き続け、ガソリンがようやく手に入った3月27日には津波の被害が大きかった若林区蒲生地区まで車を走らせる。

  悲惨な現地の状況を記したあと、日記の中でこう書いている。

 「人間という存在のはかなさを思わざるを得なかった。そして、史上最大クラスの震災から私たちは何を教訓として学ぶのか。頭を抱えるだけである。『災害は忘れないころでもやってくる』(この前の日記で=今回の津波は10メートルの防潮ふ堤を軽く超えて街を襲った。過去の災害から学んだ教訓は無力だった。東北の住人は災害を決して忘れていなかったのにである=と書いたのを受けた文章だ)のだとすれば、それは私たちにとっては苦いというより、あまりに悲痛な教訓と言うほかはない」。

  この後、4月4日には仙台シンフォニエッタの団員である石巻工業高校校長に会うため石巻に向かう。北上川の運河に沿った低地にある同校は校舎の1階は1メールほど海水で浸かったが、4階建ての建物には住民800人が避難した。

  市公認の避難所でないため、食料は届かず、学校にあった物や住民が持ち寄った物を800等分して数日をしのぐ。3日後には公認の避難所に移るよう指示があり、腰の高さまである水の中、机を並べて即製の浮き橋をつくって無事避難したという—エピソードも記している。

  ▼老記者の答えは

 福島原発事故についても、鋭い目を向けている。IAEA国際原子力機関)が30キロ圏外の飯舘村の土壌で避難基準の2倍の放射性物質を検出したとして、日本政府に住民の避難の検討を求めると発表したことに関しNHKは「IAEAが日本政府、東電と事前に刷り合わせをせずにデータを公表したのが住民を混乱させた」と解説した。

  松舘さんは「何のことはない。メディアは政府発表を基準に報道している。報道する我々をも混乱させるような、データの公表の仕方はけしからんということなのだ。(中略)この解説はいただけない。この際、ジャーナリストはどの立場に立つべきか、答えは自ずと明らかのはず」(4月1日)と、後輩たちを戒めている。

  20年前、松舘さんは地球温暖化防止に関する特集番組で「環境に優しいソフトエネルギー」への転換を訴え、「原子力は廃棄物の処理技術・方法が確立しておらず、全面的に依存する段階ではない」とソフトエネルギーから除外したという。しかし、日本のエネルギー政策は原子力偏重が続き、それが最悪の事故を招く結果になった。「政策を変えられなかったのだから私たちの敗北だ」と、ジャーナリストとしての無力感を率直に明かしている。

  NHK盛岡放送局の大船渡報道室には78歳の老記者がいた。1960年のチリ地震津波を取材した山川健さんで、3月末で契約が切れ退職の予定だったが、大震災のため4月末まで契約が延び、精力的に震災報道を続けた一人だ。4月15日に山川さんを訪ねた松舘さんは、津波防災という同じテーマを追い続ける先輩に対し「今回は多くの犠牲者が出た。

  警報が出たらまず避難と訴え続けた私たちの防災報道が住民の心に届いていなかったのではないか」と聞いた。それに対し、こんな答えが返ってくる。「確かに反射的に逃げるという行動を取らなかった住民もいた。しかし、今度の津波は過去の災害を教訓に住民が学んできた心づもりをはるかに超えるものだった。そうした中で自主防災組織をつくって避難ルートを考え、訓練を重ねて全員無事だった例がいくつかある。これは我々の防災報道が種をまいた結果といっていい」。

  山川記者の言葉を受け、松舘さんは被災地を歩き、取材した結果を震災日誌番外編「私たちの防災報道は住民の心に届いていたのか?」で報告している。無力だった指定避難所の例(石巻市北上総合支所、東松島市野蒜小体育館)や、震災後も孤立が続いた女川町の実情など「負」の状況を書いたあと、高台に移転していたため犠牲者が出なかった石巻市荒地区、日ごろの防災教育で津波の直前に高台に避難して570人が助かった釜石市鵜住居(うのまい)小学校と隣の東中学校の話を詳しく紹介した。

  さらに70人を救ったJR仙石線野蒜駅近くの手作りの避難所の話、自主防災組織が力を発揮した大船渡市赤崎地区の例、「地震があったら津波と思え。津波があったら一歩でも高台へ」という言い伝え通り、裏山に逃げて多くの住民が助かった南三陸町のケース、仙台市南部の若林区六郷、七郷地区では高速道路・仙台東部道路が堤防の役割を果たしたこと—など、松舘さんのていねいな取材ぶりを思わせるエピソードが次々に登場する。

  ジャーナリストの立場から大震災に立ち向かった地域紙の石巻日日(ひび)新聞、気仙沼三陸新報に触れ、さらにオンライン・ジャーナリズムが今回の震災で果たした役割について紹介。「地域の人々の信頼がある限り、県紙、ローカル紙とも必ず立ち直ると信じたい」と、ツイッターなどいわゆるソーシャルメディア時代を迎えている中で、苦闘する地方の新聞にエールを送っている。

  ▼心のコンサートを開催

 地震学者の役割、ボランティアの活動についても頁を割いたあと、8月5日に実現したフランスの世界的トランペット奏者、エリック・オービエと仙台フィルハーモニーによる被災者支援のための「心のコンサート」開催までのプロセスを書いている。松舘さんはNPO難民を助ける会・社会福祉法人さぽうと21と協力し、開催にこぎつける。石巻好文館高校吹奏学部も特別出演したコンサートは好評だったという。この日の日記で松舘さんは「聴く人々の心に必ずや希望の灯をともしたに違いない」と記した。

  松舘さんはいまも各地を歩き、考え続けている。8月30日、野田佳彦氏が新しい首相に決まった。「被災地の人々は失望を重ねてきた。いま求められるのは失望を絶望に決して変えることのない政治である」が注文だ。9月10日、宮城県女川町に蒲鉾メーカーの新工場と店舗がオープンした。

  多くの町民が町を去った中でのオープンに、松舘さんは若手経営者に「せっかくの努力も焼け石に水では」と質問した。その答えがいい。「1社ではそうかもしれないが、焼け石の水になりたい。小さな力でもいつかは石も冷たくなるはず。政治や行政を待っていては何も始まらない」。政治家に耳を傾けてほしい言葉だと思う。