小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

749 ある遺言 「消えた山」に託す大谷さんの思い

画像 ハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」の廃止に尽力した元国際医療大学学長の大谷藤郎さんが7日に亡くなった。86歳だった。先週から北海道を旅行中だった私は、そのことを知らず、葬儀にも行くことができなかった。ところが、北海道から帰ると、大谷さんが書いた小冊子が届いていた。

 これが「遺作」になったことに気がつかず、読み終えてからネットを検索して大谷さんの死を知った。 小冊子は大谷さんの、死の床からのメッセージだったのだ。

 この冊子は『「消えた山」序曲』という大谷さんの個人史で、長男で精神科医だった健(つよし)さんの死という悲しみの記録である。精神科医だった健さんは、4年前に大腸がんが見つかり、ことし3月、49年の生涯を閉じた。夫人を17年前に胃がんで亡くし、大谷さん自身も65歳の時がんを手術しているので、大谷さんの家族は長い間がんとの闘いを強いられたといっていい。

 大谷さんは息子が働き盛りの年齢でがんに侵され、自分よりも早くこの世を去ってしまったことに悔恨の気持ちを隠さない。

《役所の仕事に専念して、家庭のことは私事と考え大事にしなかった。今、私の胸にわいてくるのは家庭を犠牲にしてすまなかったという孤独な後悔の念です》

《現役時代、子どもと野球見物に行ったり、ごちそうを食べに行ったり芝居を見に行ったことは一度もない。世の不当な差別と闘い、社会正義を打ち立てるのが自分の仕事の第一と考えた。この4年間、滂沱として流した涙は、はかなく死んでいく息子への愛切の気持ちだが、80年間自分の社会観、人生論に固執して走り回ってきた狭量な自分の愚かさに対する怒りでもある》

 この冊子の題名になった「消えた山」というのは、滋賀県の集落の世話役をしていた大谷さんの祖父が、再三注意を促したにも関わらず官有林へ立ち入って警察に逮捕された地区の人たちから、警察の手先のように思われて村八分に遭い、胃の病気が悪化して死んだ事件のことである。

 大谷さんの父親が死ぬときに初めて「遺言」として、その経過を教えてくれ、以来大谷さんは「寛容の精神」を指針として生きてきたと書いている。 ハンセン病問題の解決をライフワークとしてきた大谷さんは、こんな言葉を残した。

≪息子健の死亡は病死であり、自然による死である。泣いてあきらめるしかないが、戦前戦後のハンセン病患者の国家隔離の結果による死は熊本地裁が判決(らい予防法違憲国賠訴訟)で示したように国家による犯罪である。日本の現近代史上二度と犯してはならぬ間違いである。このことを政治家、行政官、さらには一般の国民の皆さんもゆめゆめ忘れてはなりません。そして二度と起こさないことを改めて誓い直そうではありませんか≫

 私は、この言葉を「差別をすることは罪である」という大谷さんから人生の後輩たちへの「遺言」と受け止めたい。大谷さんのご冥福を祈ります。