小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

748 どこにでもいる平凡な少年 わが身と重ね合わせる「しずかな日々」

画像 私は「おばあちゃん子」だったらしい。いまでもきょうだいからそう言われる。私が生まれる前に祖父は死んでいるので物理的にもそうなったのだろうし、「おじいちゃん」という言葉は縁遠いものだった。だがもし、祖父が生きていて私と一緒に暮していたら、児童文学の「しずかな日々」(椰月美智子著)のような祖父と孫の静かな日常があったのかもしれない。 最近の児童文学といえば、映画にもなった梨木香歩「西の魔女が死んだ」が知られている。不登校になってしまった少女が英国人のおばあちゃんと魔女修行という架空の目標を立てて暮しながら、立ち直っていく話だ。 一方「しずかな日々」の方は、主人公が小学校5年生の夏休みにおじいちゃんと過ごした思い出を語る物語だ。ことしになってこれまで読んだ様々なジャンルの本の中でもひときわ心に残る、梨木の作品に肩を並べる名作だと思う。作者の椰月はこの作品で野間児童文学賞坪田譲治文学賞をダブル受賞している。 主人公は、おじいちゃんとの思い出の語り初めにこう言う。「ぼくはあの頃のことを丁寧に思い出す。降り始めた雨がしみこんでゆくときの土の匂い。記憶は次から次へのカードが、めくれるようにわいてきて、あの、はじまりの夏を思い出させてくれる。ぼくはいつだってあの日に戻れる」 本の題名のように、物語は静かに進行する。あまり勉強もできず、運動もだめ、友達もいない孤独な少年が5年生になり、夏休みに母親と離れて祖父の家で暮らす。明るくて、勉強もでき、スポーツも万能な級友と友達になり、公園で野球を一緒にやり、さらに別の友達もできる。彼らは夏休みにはおじいちゃんの家に泊まりに来る。 おじいちゃんは無口で、うまいおにぎりをつくってくれる。少年にとってこの夏の日々は、一生の宝物になっている。どこにでもいる少年の物語だ。 私の子どものころを振り返ってみると、おじいちゃんこそいないが、この作品の少年と何ら変わりがない平凡な日常だった。もちろんいじめはなかったし、夏休みでもいつも顔を会わせる友人もいた。一つだけ違うのは小説の母親が週刊誌をにぎわせる個性の豊かな人なのに対し私の母は目立たない人だったことだ。 多感な少年時代にこの小説の主人公のような夏を送ることができたら、その後の人生も暗い事はない、そう確信させてくれる力強さを持った作品である。