小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

737 『神様は海の向こうにいた』 戦艦武蔵乗組員の証言(2)

  戦艦「武蔵」に乗り組んだ小島小三郎さんの話を続ける。

 1944年10月24日「レイテ沖海戦」の日。小島さんらは朝早くから6000から7000個のおにぎりをつくり2399人の乗組員全員に配った。武蔵の周囲には駆逐艦が配置されていた。

  午前10時過ぎ、敵機44機が爆弾を落とし、機銃掃射をかけてきた。魚雷も迫ってくる。5回にわたる波状攻撃だった。甲板は死者、負傷者が続出し血の海になった。生きているものだけを手当てし、小島さんらも負傷兵を船内に運び入れ、死体は浴室に運んだ。次第に武蔵は左に傾き始める。魚雷が命中すると、大きな波しぶきが上がり死体や負傷者をさらっていった。

 傾いた武蔵を水平にしようと、右側に荷物を移し、海水を入れた。しかし5時間の攻撃に耐えきれず武蔵は次第に沈み始める。負傷者は甲板に運ばれたが、船が傾き一斉に海に滑り落ちて行く。午後7時、艦長の「全員退艦」の判断が出た。武蔵は左側に傾いている。生存者は一斉に海に飛び込んだ。

 小島さんは武蔵から離れようと必死に泳いだ。武蔵が沈没すれば周辺の海水とともに、そこにいる人間は船の中に吸い込まれてしまうからだ。武蔵はやがて爆発し、重油が一面に広がった。

  海水や重油を飲み込んでは吐きながら浮かんでいる材木に必死につかまり、小島さんは近くにいる兵隊たちと歌を歌いながら眠気と戦い漂流した。かなりの時間が経過して、小島さんは駆逐艦に救助された。

  武蔵の乗組員のうち救助されたのは1329人で、小島さんらはフィリピンのコレヒドール島へと運ばれる。このうち、一部の人が日本に帰され、残りは現地で戦うことになった。小島さんは日本への帰国組に入り、マニラから空母「隼鷹」(じゅんよう)に乗り日本へと向かった。途中、潜水艦の魚雷攻撃を受け、船が傾き、沈没すると早合点し海に飛び込んだ人もいたが、艦長の指示で救助はされなかった。

  佐世保に着いた後、小島さんらは久里浜の軍施設に送られた。武蔵が沈没したことを国民に隠すため外出禁止になった。別の商船でマニラを出た武蔵の生き残り420人は魚雷攻撃で船が沈没、120人しか救助されなかった。フィリピンに残った約700人は米軍と戦い、東部山岳地帯に追い込まれ病気や飢えで56人しか帰国できなかった。

  久里浜に収容されていた小島さんらは、その後横須賀の海兵団に移され新兵教育の指導者になるための訓練を受けるうち、敗戦を迎える。8月31日には食料を分配して、故郷へと向かった。武蔵乗組員2399人のうち、最終的に日本に生還できたのは430人しかいない。

  作家の吉村昭は「戦艦武蔵」という作品を書き、その中に小島さんの名前も出ている。講演旅行で小島さんが働く旅館に泊まった吉村は初めて小島さんと会い、話をしている。その時、吉村は「戦艦武蔵を書く前にお会いしたかった」と語ったという。

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 小島さんの体験を読んで、人間の運命を感じた。沈みゆく武蔵を後に、多くの人たちが海に飛び込む。しかし次々に波にのまれて海の底へと消えていく。その前の地獄のような武蔵の船内。戦後、小島さんはこれらのつらくて悲しい思い出を抱えて生きてきたのである。「あのような悲しい出来事は2度と経験したくない」という小島さんの言葉は重い。

 

『神様は海の向こうにいた』再出版!戦艦武蔵乗組員の証言(1)