小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

676 再読「天平の甍」 井上靖の文章

画像 京都の旅の帰途、井上靖の「天平の甍」を再読した。その文章の冴え具合に、ほとほと感心しながら、読み進めた。

〈日本僧の一行は宿舎の既済寺に帰るために大明寺を出た。大明寺のある丘の上からは下町の羅城一帯が見渡せた。中央を南北に大運河が貫流し、東西に十二条の街路が通っている。この街にあるものは土まで香るという詩の一句を普照は曾て読んだことがあった。大小の河川にかかっている二四あるという橋の幾つかも、そして運河の岸に建ち並んでいる倉庫の屋根にも、それから大小の伽藍も、その間を埋めている樹木の茂みもみな冬の陽に冷たく輝いている。…〉

 ここに掲げた文章は、遣唐使に加わり、唐にやってきた日本の僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)の2人が、唐(現代の中国)の揚州・大明寺に鑑真を訪ね、日本への招聘を伝えた後の記述である。

 史実によれば、栄叡、普照とも実在の僧だった。鑑真の招聘に一番熱心だった栄叡は、病に倒れ、唐の土になる。普照は幾多の困難を乗り越え、6回目の渡航で鑑真を日本に招くことに成功する。 このとき、鑑真は66歳。初めて日本行きを決意して、失敗したのが55歳だったから、日本に渡るには11年の歳月が必要だったのだ。

 この間の動きを井上靖は決して冗漫にならず、簡潔な筆致で描いていく。 映画にもなった、この作品を再読しながら、2年前に訪れた揚州の街と大明寺を思い出していた。驚いたのは揚州が大都会だったことであり、この街には「鑑真学院」という僧を育てる大学があったことだ。

 鑑真は、唐招提寺の開祖として日本では知られているが、中国ではそうでなないと勝手に想像していた。しかし、それは浅はかな考えだった。天平の甍を読めば鑑真が当時の唐でいかに信頼を集める僧だったかは理解できるはずだ。再読して、それを痛感した。 「甍」というのは、屋根の頂上部分をいう。帰国した普照の元に、唐から一個の甍が届く。それは、寺の大棟の両端に載せる「鴟尾」(しび)、両端に取り付けた装飾で、瓦、銅、石で造るという)だった。

 この鴟尾が唐招提寺の金堂の屋根に使われたと、井上は書いた。そして現代。「唐招提寺2010プロジェクト」で金堂は10年かけた解体修理が終わった。そして天平の鴟尾を基に「平成の鴟尾」も制作されたという。 簡潔明瞭な井上靖の文章は、歴史小説の古典的存在といえる。こうした名文に触れる「再読」の時間は、決して惜しくない。