小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

571 さらば日曜菜園 瞑想と魂の休養と

画像

 

 

 

 

 

 

 

 

 車で5分ほどの所に、不動産屋が営む貸し農園がある。この1区画を借りて、家族とともに野菜を育てて10年以上が過ぎた。つい先日、不動産屋からはがきで「3月をもって貸し農園は終了する」という通告が届いた。

  周辺は宅地化が進んでおり、いつかはこうなると思っていたが、ピリオドが近付くと何やら寂しい。地方では耕作放棄の農地が拡大する一方なのに、都市部では宅地化が進み、畑や水田が次第に姿を消している。一極集中といういびつな日本の姿を象徴する出来事だと思う。

  面積が30平米程度の、農業の専門家からみればままごと程度の小さな畑である。だから畑仕事に慣れてきた人たちは、1区画だけでなく2区画、あるいは3区画を借りて、野菜づくりで汗を流すようになった。耕運機を使う姿も珍しくはなく、最近は収穫した野菜を民宿に販売する農家顔負けの人も出てきた。

  私と言えば、中途半端な耕作しかできなかった。会社を定年でやめて畑に来るのが日課だという人たちに比べ、週1回手入れにいけばいい方である。日曜菜園なのだから無理をせず、適当に楽しみながらやればいいという考えが根底にあり、手抜き状態が多かった。途中で「耕作放棄」をして、家族から冷たい目で見られたことも数限りない。

  その結果、雑草で畑全体が覆われてしまい、雑草の除去に数時間を要することも少なくはなかった。こんな姿を見て同情したのか、憐れんだのか、隣の畑の人から収穫したばかりの野菜をもらうのが当たり前のようになってしまった。

  それでも、ナス、トマト、キュウリ、ゴーヤ、玉ネギ、ジャガイモ、カボチャ、白菜、大根、ピーマン、トウガラシ、シシトウ、ネギと、多くの野菜を楽しみながらつくり、収穫した。取り立ての野菜の味は格別だった。

  野菜づくりは「人づくり(人材育成)やものづくり」と似ていると思う。きちんとに手を掛けてやれば、豊かな収穫があるが、手抜きをすれば貧弱で育ちの悪い野菜しか手に入れることはできない。

  いま、冬の畑にはハクサイとダイコン、ターツァイの3種類の野菜しか栽培されていない。ダイコンに限って言えば、秋の種まきが遅かったため、ほとんど育つことなく冬になり、まだ10センチ程度にしか育っていない。これ以上は育つことなく、この小さなダイコンが日曜菜園最後の収穫作物になるはずだ。

  ドイツの作家で詩人のヘルマン・ヘッセは「庭仕事の愉しみ」の中で「土と植物を相手にする仕事は、瞑想するのと同じように、魂を解放し、休養されてくれます(1955年)」と書いている。この10数年、私もヘッセのように、小さな菜園で野菜たちと向き合いながら瞑想し、魂の休養をしていたのかもしれない。