小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

549 フィクションとノンフィクションの境目は 沈まぬ太陽

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 フィクションとノンフィクションには、創作と事実という境界がある。しかし日航ジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落し、乗員乗客520人が亡くなった事故をモデルにした映画「沈まぬ太陽」は、フィクションとうたいながらもノンフィクションに近い。日航の経営危機問題がいまクローズアップされているだけに、映画も注目を集めているようだ。

 3時間20分という長編、そして日本だけでなく海外まで及んだロケ。最近の日本映画としてはスケールの大きな作品だ。観客の受け止め方もさまざまだろうと想像する。 原作は山崎豊子週刊新潮に連載した。連載当時から、多くの批判があった作品だ。主人公のモデルは日航労組の委員長を務めた小倉寛太郎という人で、小倉の日航での処遇を中心にストーリーは展開する。

 フィクションの楽しみは、登場人物たちの個性があることだ。原作も映画も、その例に漏れなく「正義の人」と「悪いやつ」の色分けが明瞭であり、それが読者や観客を惹きつける大きな要素になっている。 そこがフィクションの怖いところだ。

 歴史の定説ではマイナス評価を受けていた人物が、小説によって大きく見方が変わった例は珍しくはない。山本周五郎の「樅の木は残った」の主人公、原田甲斐仙台藩伊達騒動で「奸臣」とされてきた。しかし、周五郎の筆によってその評価も見直された。

 城山三郎の「落日燃ゆ」は、広田弘毅(32代総理大臣、戦後A級戦犯として絞首刑)の生涯を追ったものだ。それまでの「無定見、無責任」の世評に対し、城山は「国際協調に尽力し、軍部の独走を必死に食いとどめようとした、悲劇の首相」と描き、広田への見方がかなり変化した。(広田に対し歴史学者の厳しい見方は変わらないようだ)

 映画に対し日航は社内報で激しく批判している。映画では報復人事、役員の不正経理、政治家・旧運輸省幹部らへの利益供与や贈賄のシーンを生々しく描いているが、社内報は「そんな不正はあるわけがない」と否定し、事故についても「作り話を加えて映像化し、商業的利益を得ようとする行為は遺族への配慮に欠ける」としたうえで「しかるべき措置を講じることも検討している」と法的手段をとることもありうると書いている。(時事ニュース)

 遺族への配慮に欠けるとはどういう意味かよく理解できないが、社内報の反論からはもがき苦しむ日航の現状が何となく伝わってくるのだ。沈まぬ太陽は、日航にとってマイナスイメージのタイミングの悪い映画だったに違いない。蛇足ながら、かつて日航を定期的に利用したことがある。天候の影響で何度も欠航に遭遇した。ANAや他の航空会社は運航しているのに、JALは早々に欠航となる。安全優先策というより社内事情(組合問題)のためだったのではないかと思われた。